焼かれる死体を、その灰をかぶる位に間近で見た。ネパールのパシュパティナートだった。小さな川の横、組まれた丸太の上に、白い布でくるまれ更にオレンジ色の布をかけられた死体が横たわる。僧侶らしき人が死体の口に何かをつけ、その周囲を回ってから、足の上の布を持ち上げて蝋燭を左右に振る。そして布から頭を出し、口に火をつけた。燃えやすいように藁が置かれ、火は死体全体を包んだ。白い煙が上がる。匂いはしなかった。人生、生前の社会での役割、後に残されたもの、そんなものは感じない。ただ火をつけられたものが、自然の法則通りに燃えている。僧侶は去り誰もいなくなった。燃える死体に何か特別なものを感じ、解釈しようとしているのは、死が隠蔽された所から来た観光客だけだ。カソウバの周りで暮らす人々は、いつもの生活を続けている。焼け残ったものを流している川で、カソウバの二十メートル下流で、服を洗い、食器を洗っている。
インドでは、死が身近である分だけ、死への油断といったものもあるのではないだろうか。日本の常識では考えられない光景を見た。彼らはビルのペンキ塗りごときに命懸けで臨んでいるのだ。
壁を塗るのだったら、先進国ならゴンドラを使うだろう。しかし、彼らはそんな便利なものは使わない。足場を組んでいる。しかも、その足場というのは、竹同士を紐で括り付けただけなのだ(当時)。その竹で組まれた足場を窓枠に紐で括り付けて、ビルから離れないようにしている。竹同士の間隔は縦に一メートル、横は三メートル。縦横に交差している。ただそれだけだ。その足組みが十五階程のビルに張りついている。十五階だ。そこを裸足の人間がするすると登っていく。バケツと刷毛を持って。命綱などない。一本の竹の上に乗って、片手を竹に回し、片手で塗る。これは分かりきっているけれども、はっきりいって相当危ない。かなり揺れるだろうし、かなり滑るだろう。竹の上に立ち、十五階から下を眺めたところを想像してみる。めまいがしてくる。日本なら、竹を伝わって上に登るだけでもテレビに出られるだろう。鉄パイプで組み、幅五十センチの通路を付け、階段まであったとしても、剥き出しの足組みで十五階までは登るまい。そんなことをして事故など起こったものなら、責任者は訴えられ有罪となるかもしれない。それに引き換え、インド人の死への感覚はどうなっているのか。ペンキ塗りの命など、ゴンドラを取り付ける、あるいは、しっかりした足場を組む費用と手間に比べれば及ばないのか。インド全土で毎月何人のペンキ塗りが落ちて死んでいくのだろう。まったくもって信じられない。死への距離がとことん近い所だ、インドって国は。