その時丁度、儀式の始まりを告げる太鼓が打ち鳴らされた。人が儀式場の回りに集まってきた。儀式場といっても、二十センチ位の低い石に囲まれた六畳程のコンクリートスペースだ。そこに二十センチ位離された高さ一メートル程の木材が二本立てられている。その木材の間には厚い角材が挟まれていて、山羊の首が置かれる台となっている。そして、両側の木材に開けられた穴に棒が通されて、首の上が抑えられる。この穴は上から五つも開いている。上の四つは首を抑えるには高すぎるので、木の台がどんどんすり減ってきたのではないかと思われる。毎日毎日、一体何百年やっているのだかは知らないが、木がすり減る程、哀れな山羊の首ははねられ続けているのだ。
動物は自分の命が危険に晒されているならば、それをきっと察知するだろう。ましてや、仲間の血の匂いのするところに連れて来られているのである。何だかとても不安な気持ちだろう。山羊の鳴き声には元気がない。人にひょいっと持ち上げられると、無駄な抵抗で力なく足をばたつかせ、哀しく
「めー」
と鳴いた。かぽっと首をはめられて、尻尾と後ろ足を引っ張られると苦しそうに舌を出した。そして小さな声で、また
「めー」
と鳴いた。そこへスパン、となたがおろされる。あっけない。体はぱたんと下に落ち、首ははさまれたままに引っ掛かっている。黒い山羊の首の切り口は、ほんのりピンクがかった赤である。そして、真っ赤な血がだらだらと流れる。この血が有り難いものらしい。人々は指にとり額につけたりなんかして手を合わせている。
いけにえとは、血をありがたく額につける人間とは、いかなるものか。そして、それを見に来た観光客(私)はいかに。(普段肉を食べてますけどね)
その後スパン、スパン、スパンと山羊の首ははかなく落とされた。全部終わると、太鼓打ちの年老いた坊主頭の男は不敵に笑った。
文明が発達すると死が遠くなるという。文明にとって死は忌まわしきものであり、覆い隠されるようになった。日本で死はタブー視されて語られることは少なくなる。北米ではエンバーミングといって手術までして死体は綺麗に整えられる。ところが、インドは死が近い。死んだ人が川べりで焼かれるし(隣国ネパールでは道の途中の広場で焼かれていたこともあった)、路上では死んだ人が転がっていた。そして、いけにえの儀式。死への距離は確実に近い。身近だ。