目的地へ行こう

まだたどり着いていない人のブログ。

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何故旅をしたかったのか~その1

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  以上の手記は旅のあとに数年かけて書いた。少しずつ書き足し、そして何度も見直して修正した。旅行中のメモ書きや写真を見ながら、その時起きたことや感じたことを正しく分かりやすく伝えられるように直していった。今回、ブログを書くにあたっても全体を読み直し、またアップする文章毎に、起きたことそのままに伝えたいことを表現できるよう見直した。

 インドを旅した当時はスマホで情報を得るなんて出来なかった。ただ、不便な分現地の人たちと濃厚に接し、緊張感も味わえたのではないだろうか。カンボジアでポル=ポト派の支配領域に近づいたときベトナムで病気になったとき、またインドで道に転がる死体を見たとき、私は、‘生きたい’、‘生きて日本に帰りたい’、と強く思った。そのために正しい情報を得ようと努めた。間違った情報もあるので大事なことは何人にも確認し、正しい情報の見極めをする必要があった。旅で使っていたノートには、‘すべて人に聞き地図(だけ)で探すのはやめろ’、‘何度も確認しろ’、というメモがある。ここでは地図とあるが、行き先だけでなく大事なことは同じようにすべて人に聞いていた。人に聞かないと最新の確からしい情報を得るには限度がある。また、いくつも情報を得て正しいことを選択する必要もあった。今はインターネットで簡単に情報が多数取れる。しかし、その分情報の確かさの検証も必要なはずだ。話しを直接聞こうがインターネットで見ようが発信者は同じ人間なのだから。当時は情報を得るには不便な時代だったが、直接人を見極めながらより確からしい情報を選択しようとするのは自然なことだった。便利な今だからこそこの手記の緊張感が実際的なこととして伝われば幸いである。

 

目的地へ行こう

 “旅人と旅行者を分けるのなら、旅人とは、まったく自分の帰る場所というものを持たない人達のことを言うのだろう。どこの土地にも留まらない。どこの土地にも執着しない。だから、どこで死んでも構わない。私は日本以外で死ぬのはごめんだ。そんなことになったら、とてつもなく寂しい。寂しすぎる。私は旅人ではない。ただ、気まぐれでぷらっと出掛ける旅行者だ。”(「日本以外で死にたくない」)と感じていた。旅人でない旅行者の旅は中途半端で偽物のようだ。もっと自分を試したい。私は旅に出ることを続けた。しかし、イランで中央アジアからの出稼ぎ労働者たちと並んで銭湯の順番待ちをしていたとき、ふと‘30歳も過ぎてやってることじゃないよ’と感じた。そして、中国からラオスに陸路で入る旅をして、私はバックパッカーをやめた。バックパッカーをせずにはいられない強い衝動がなくなった。試すことに終わりはないから、満足し切れないまま疲れて旅をやめてしまったのか。それまでどうしても旅をしたくなっていた理由は、当時、不十分にしか分からなかった。

  しかし、今は分かる。