目的地へ行こう まだたどり着いていない人のブログ。 2017-11-27T19:28:54+09:00 koyoblog Hatena::Blog hatenablog://blog/10328749687236251485 読んでいただきありがとうございました hatenablog://entry/8599973812321009350 2017-11-27T19:28:54+09:00 2017-11-27T19:28:54+09:00 ここまで一度でも読んでいただいたすべての皆さま。ありがとうございました。 小さな箇所はときどき修正していますが、アドセンスを試したらバナーが記事のど真ん中に数日間出ていたり、アップする記事の順番を間違えたりしたこともありました(同じ指定日時を設定してしまい、後にアップしたい方が画面上に出ていました。ただ、もう一方も出ていた時間があるようで、はてなスターを付けてもらったお知らせもありました)。運よく、順番を反対にしても間違えたことが分かりにくい記事で、今でもそのままです。 ブログでは、一回の記事の長さを丁度よくするとか、インド以外の話しが長くなりすぎないように(インターネットにはあまり適当でなさ… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171125213320j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171125/20171125213320.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171125213320j:plain" /></p> <p>  ここまで一度でも読んでいただいたすべての皆さま。ありがとうございました。</p> <p>  小さな箇所はときどき修正していますが、アドセンスを試したらバナーが記事のど真ん中に数日間出ていたり、アップする記事の順番を間違えたりしたこともありました(同じ指定日時を設定してしまい、後にアップしたい方が画面上に出ていました。ただ、もう一方も出ていた時間があるようで、はてなスターを付けてもらったお知らせもありました)。運よく、順番を反対にしても間違えたことが分かりにくい記事で、今でもそのままです。</p> <p> ブログでは、一回の記事の長さを丁度よくするとか、インド以外の話しが長くなりすぎないように(インターネットにはあまり適当でなさそうというものもあり)、省いたところがあります。それらも含めてAmazonのキンドルで本を出版しました。</p> <p> ブログを読んでいただいている方がダウンロードできるように、無料キャンペーンを設定しました。今日(27日)17時から5日間です。キンドルはPCからも読めます。</p> <p> 気に入っていただけたら、レビューを書いていただいたり、ご紹介などしていただけるとありがたいです。</p> <p> </p> <p>  <a href="//af.moshimo.com/af/c/click?a_id=841425&amp;p_id=170&amp;pc_id=185&amp;pl_id=4062&amp;url=http://www.amazon.co.jp/dp/B078BQXQ6W" target="_blank" rel="nofollow"><img src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51gU4UOEF3L._SL160_.jpg?" alt="" /><br />旅は帰ったときのために: ~まだどこにもたどり着いていなかった バックパッカー。インドへ~</a><img style="border: 0px none;" src="//i.moshimo.com/af/i/impression?a_id=841425&amp;p_id=170&amp;pc_id=185&amp;pl_id=4062" alt="" width="1" height="1" /></p> <p> </p> <p>内容紹介</p> <p><span style="font-size: 80%;"> 私は行きっぱなしで帰って来ないとか、半年働いて半年バックパッカーをしているような特別な人ではない。学生として、社会人として限られた時間とお金でバックパッカーをしていた。それでも相当強烈な経験をした。今無事でいるから、濃い経験ができて良かった、と思える。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> 本書で登場する出会った人たちは、貧しい子供たち、孤児院の子供たち、死にそうな物乞い、白人の物乞い、諦めた目の人たち、いかさまガイド、土産物屋や食堂の手ごわい人たち、だまそうと近づいてくる人たち、破壊者シヴァ、鼻毛の青年、親切な宿の青年、インドの友、各国からのバックパッカー、旅慣れないバックパッカー、旅の強者、支援仲間、支援の偽善を叱った人、忠告してくれた薬局のおじさん、バイクの警察官、注射を回し打ちする者たち、いけにえの儀式の太鼓打ち、美人の歌手、マザー・テレサ、ミッテラン大統領、シアヌーク殿下、ポル=ポト派、警備兵、国連平和維持軍、帽子を持って行った少年、宣伝男、シャツを伸ばす強引なおばさん、富裕層、人の好い旅行代理店の人、人の好いリクシャー運転手、やり手のリクシャー運転手、柄の悪い運転手、暗闇で蠢く人々、部屋の扉の前で眠る使用人、銃口を突きつける者、などなど。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> 旅は大体の見通しだけで日本を出発していた。宿や行先は現地を歩きながら決めていく。安宿に泊まり、移動は徒歩、バス、列車が基本だ。やむを得ない時だけタクシーや飛行機を使う。宿も食事も値切りの交渉をする。病気で寝込んでいたときに、バナナ一本を買うにもふっかけられて値切り交渉をしたのはきつかった。歩くことが多いので、持ち物は最低限。そして、お金をかけない旅をするということは、治安が悪い地域にも滞在するので安全対策も必要だった。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> スマホがあったらどんなに助かっただろうと思う。インターネットで調べたり、バックパッカー同士で情報を交換したりできる。インターネットがなかったら日常生活でも相当不便なのに、危険な地域に行く、日本人の感覚が通じない、とか発展途上国での貧乏旅行では、情報が不十分だと身の危険にも及ぶ。正しい情報を得るために何人にも話を聞き、確かめていった。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;">まず、無事に帰れないかもしれない地域を見極め、そこには踏み込まない。それから、食べられる物を探さねばならない。病気にならない食べ物を。‘これは食べて平気だろうか’なんて食事の度に気をつけなきゃならない生活だ。そして、毎日の寝る宿の確保も大事だ。暗くなっても宿が見つからなかったときに感じた不安は、今でもはっきりと思い出す。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> 旅の持ち物を挙げてみる。パンツ三枚、Tシャツ二枚、シャツ、トレーナー、Gパン、短パン、ベルト、靴下、スポーツシューズ、サンダル、タオル二枚、帽子、空気枕、腕時計、携帯用目覚まし時計、カメラ、フィルム36枚撮り五本、ボールペン、懐中電灯、トイレットペーパー、ポケットティッシュ四個、ウェットティッシュ二個、歯ブラシ、歯磨き粉、石鹸、爪切り、耳かき、ビニール袋三枚、紐、風邪薬、胃薬、下痢止め、マラリアの薬、チフスの薬、消炎の塗り薬、消毒用塗り薬、絆創膏十枚、蚊取り線香とそれを立てる金具、百円ライター、梅丹(梅肉エキス)、水筒、トラベラーズチェック、クレジットカード、日本円とドル、パスポート、顔写真二枚、小物入れ、首に下げる貴重品入れ、腹に巻く貴重品入れ、錠前二つ、ワイヤー、バックパック、旅行安全情報の本と冊子、地球の歩き方、旅のノート。元々着古していた衣服や消耗品は帰国時には捨てているので、空港の荷物検査で「これだけ?」と言われたこともある。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> </span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> 全く違う価値観の中で、刺激を求めて自分の力を試すのであれば、その究極の形はインドにあり、そこには世界各国からバックパッカーが訪れる。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> 私がバックパッカーとしてインドを訪れたのは一九九四年だった。噂に違わず、とんでもなく刺激があった。やはりインドというのは圧倒的なパワーを持ち、そのパワーに翻弄され、まったく違う価値観にぶつかり、はねかえされ、だけれどもそれに必死に抵抗した。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> だが、旅を続けるうちに、次第にインド独自の価値観を受け入れていったことに気づく。そして、力試しに体当たりしてただ抗うことの、また自分の力だけに頼ることの限界にも気づいていった。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;"> この手記はその帰国後、東南アジアの旅などと併せて数年かけて書き上げた。当時はまだどこにもたどり着いていなかった。どこに向かっているのかも分かっていなかった。しかし、今は分かる。それをブログに載せ、一部公開していなかった部分も併せて本書とした。</span></p> <p> </p> <p>またいつかブログを再開します。ありがとうございました。</p> koyoblog 何故旅をしたかったのか~その2 hatenablog://entry/8599973812318996422 2017-11-23T19:00:00+09:00 2017-11-23T19:00:27+09:00 目的地へ行こう この手記の中で私は三回怒鳴っている(1,2,3)。“価値観が違い、今までの経験がまったく通用しなくて、自分の力を頼るしかない状況でどれだけやれるか、試したいのである。そして、その時の緊張感がたまらないのである。この緊張感というのは決して生まれ育った土地にいては味わうことはできない。まったく知らない人、分からない土地、違う価値観の中で生きていかねばならないという緊張感である”(「何故ハードな旅をするのか」)。この緊張感、そして異国の地にいることによる現実からの解放感。これが私を怒鳴りやすくした。 一方、“一人旅をして、一番痛烈に感じることは何かと言えば、‘一人だけで出来ることは限… <h3> <img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171118234558j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171118/20171118234558.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171118234558j:plain" /></h3> <h5>目的地へ行こう</h5> <p> この手記の中で私は三回怒鳴っている(<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/It%E2%80%99s_India">1</a></u>,<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/purveyor">2</a></u>,<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/DamDamAirport">3</a></u>)。“<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Indian_and_Japanese">価値観が違い</a></u>、今までの経験がまったく通用しなくて、自分の力を頼るしかない状況でどれだけやれるか、試したいのである。そして、その時の緊張感がたまらないのである。この緊張感というのは決して生まれ育った土地にいては味わうことはできない。まったく知らない人、分からない土地、違う価値観の中で生きていかねばならないという緊張感である”(<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/why_hard-journey">「何故ハードな旅をするのか」</a></u>)。この緊張感、そして異国の地にいることによる現実からの解放感。これが私を怒鳴りやすくした。</p> <p> 一方、“<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Cambodiacivilwar1">一人旅をして、一番痛烈に感じることは何かと言えば、‘一人だけで出来ることは限られている’ということだ。</a></u>”(「助けられて一人旅は続く、カンボジア内戦の終わり~その1」)と書いてある。しかし、当時は自分に限界があることを認めてはいなかった。もっと自分で出来ると内心では信じていた。だから、もっと旅をしてもっと自分の力を試して、出来ることやうまく対処できることを増やしていこうと思っていた。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/resigned_eyes">諦めた目</a></u>を持った人たちを見たとき、彼らの出口のない境遇にショックを受けたが、反対にそのとき自分は、‘決して諦めない’、‘前向きに行けば何だって可能性がある’、と思っていた。</p> <p> 限界はあるけれど、自分の限界を認めたくはないという矛盾。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/prayer">マザー・テレサは、もう助からない人を前にして、祈る。それは限界を悟ったからだと私は感じているのに、あえて難しくして、自己満足だろうか</a></u>と疑問を書いている。</p> <p> 限界があると助け合う。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Cambodiacivilwar2">お互いに助け合わなければならないときに何人(なにじん)という境目はなくなる。インドだとか日本だとかはなくなる(「助けられて一人旅は続く、カンボジア内戦の終わり~その2」)</a></u>。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/driveamotorbike_fast">カルカッタで警官に助けられバイクに乗せてもらって飛ばしたとき</a></u>、<a href="http://www.koyoblog.com/entry/AJAYgotyelled"><u>警備兵に怒鳴られる</u><u>AJAY</u><u>のことを「彼は私の友達なんだ」と助けたとき</u></a>、私は嬉しかった。価値観の異なる人たちと一体感を得ていた。</p> <p> 助け合うことには状況次第での距離感がある。日常の中でのちょっとしたこと。多少危険を感じているときに救ってもらうこと。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Cambodiacivilwar2">生死に関わるとき</a></u>。しかし、距離が近すぎる援助は無用なもので、例えば<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/unclouded_eyes">貧富の差を生み出したりする</a></u>。この状況次第の距離感は<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/forchildren_forus">ネパールで</a></u>も<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/dontworkformoney">インドで</a></u>も、その場面になる度に<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/unclouded_eyes">フィリピンでの教訓</a></u>を生かした。</p> <p> 適度な距離でうまく助け合ったときに感じたことはいつまでも強く残っている。だから、当時は分からなかったが、どうしても旅をしたくなっていた理由にあとで気が付けた。限界のあるときに助け合って、受け入れ合いたかったということだ。</p> <p> バックパッカーとしての最後の旅で、私はラオスの少数民族のお祭りに飛び入り参加して、一緒に踊り酒を飲み食事を振舞ってもらった。バスの乗り換え地点の村でその祭りを目にしたのだが、素朴な人たちで危なさは感じなかった。そこで祭りの中に入っていくと、旅をしている私を歓待してくれたのだった。</p> <p> 力が取れて少し楽になった。</p> <p> 私は<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/chaos">混沌</a></u>に引き込まれない、秩序の世界にいて旅をする人間だ。生い立ちの中で持っているものを捨てることはできない。必ず日本に生きて帰ってくる旅行者だ。それで良いのだ。限界を知るのは諦めることではなく、自分を受け入れ異なることも受け入れること。自分の捨てられないものを知っているけれど、他国の異なる価値観の人たちと受け入れ合える。刺激ある旅行で緊張感を感じながらも、助け合って一体感を持つ余裕もできた。もう十分。現実の自分の住むべき場所で地に足を着けて生活をして行くのだ。</p> koyoblog 何故旅をしたかったのか~その1 hatenablog://entry/8599973812314199628 2017-11-21T19:00:00+09:00 2017-11-21T19:00:30+09:00 以上の手記は旅のあとに数年かけて書いた。少しずつ書き足し、そして何度も見直して修正した。旅行中のメモ書きや写真を見ながら、その時起きたことや感じたことを正しく分かりやすく伝えられるように直していった。今回、ブログを書くにあたっても全体を読み直し、またアップする文章毎に、起きたことそのままに伝えたいことを表現できるよう見直した。 インドを旅した当時はスマホで情報を得るなんて出来なかった。ただ、不便な分現地の人たちと濃厚に接し、緊張感も味わえたのではないだろうか。カンボジアでポル=ポト派の支配領域に近づいたとき、ベトナムで病気になったとき、またインドで道に転がる死体を見たとき、私は、‘生きたい’、… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171118234650j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171118/20171118234650.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171118234650j:plain" /></p> <p>  以上の手記は旅のあとに数年かけて書いた。少しずつ書き足し、そして何度も見直して修正した。旅行中のメモ書きや写真を見ながら、その時起きたことや感じたことを正しく分かりやすく伝えられるように直していった。今回、ブログを書くにあたっても全体を読み直し、またアップする文章毎に、起きたことそのままに伝えたいことを表現できるよう見直した。</p> <p> インドを旅した当時はスマホで情報を得るなんて出来なかった。ただ、不便な分現地の人たちと濃厚に接し、緊張感も味わえたのではないだろうか。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/warning_against_travel">カンボジアでポル=ポト派の支配領域に近づいたとき</a></u>、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/it_might_typhus">ベトナムで病気になったとき</a></u>、また<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/don%E2%80%99twannadieinaplacelikethis">インドで道に転がる死体を見たとき</a></u>、私は、‘生きたい’、‘生きて日本に帰りたい’、と強く思った。そのために正しい情報を得ようと努めた。間違った情報もあるので<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/thrill_or_dead">大事なことは何人にも確認し</a></u>、正しい情報の見極めをする必要があった。旅で使っていたノートには、‘すべて人に聞き地図(だけ)で探すのはやめろ’、‘何度も確認しろ’、というメモがある。ここでは地図とあるが、行き先だけでなく大事なことは同じようにすべて人に聞いていた。人に聞かないと最新の確からしい情報を得るには限度がある。また、いくつも情報を得て正しいことを選択する必要もあった。今はインターネットで簡単に情報が多数取れる。しかし、その分情報の確かさの検証も必要なはずだ。話しを直接聞こうがインターネットで見ようが発信者は同じ人間なのだから。当時は情報を得るには不便な時代だったが、直接人を見極めながらより確からしい情報を選択しようとするのは自然なことだった。便利な今だからこそこの手記の緊張感が実際的なこととして伝われば幸いである。</p> <p> </p> <h5>目的地へ行こう</h5> <p> “<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/don%E2%80%99twannadieinaplacelikethis">旅人と旅行者を分けるのなら、旅人とは、まったく自分の帰る場所というものを持たない人達のことを言うのだろう。どこの土地にも留まらない。どこの土地にも執着しない。だから、どこで死んでも構わない。私は日本以外で死ぬのはごめんだ。そんなことになったら、とてつもなく寂しい。寂しすぎる。私は旅人ではない。ただ、気まぐれでぷらっと出掛ける旅行者だ。</a></u>”(「日本以外で死にたくない」)と感じていた。旅人でない旅行者の旅は中途半端で偽物のようだ。もっと自分を試したい。私は旅に出ることを続けた。しかし、イランで中央アジアからの出稼ぎ労働者たちと並んで銭湯の順番待ちをしていたとき、ふと‘30歳も過ぎてやってることじゃないよ’と感じた。そして、中国からラオスに陸路で入る旅をして、私はバックパッカーをやめた。バックパッカーをせずにはいられない強い衝動がなくなった。試すことに終わりはないから、満足し切れないまま疲れて旅をやめてしまったのか。それまでどうしても旅をしたくなっていた理由は、当時、不十分にしか分からなかった。</p> <p>  しかし、今は分かる。</p> <p> </p> koyoblog インドは航空チケットを取るのもハードだった hatenablog://entry/8599973812318103747 2017-11-19T19:00:00+09:00 2017-11-19T19:00:40+09:00 ‘インドに行きたい’と初めて思ったのは、一九九二年の秋だった。しかし、インドとの相性は悪かった。その年、一九九二年の十二月、出発直前にヒンドゥー教徒とイスラム教徒間の対立で暴動がおこり、何やら危険なムードが漂った。暴動はインド各地に拡大した。ネパールに入って様子を見てからインド入りを決めようかとも思ったが、暴動は一向に沈静化する気配を見せず、結局はインド行きを諦め、東南アジアを中心に回った。 インド行きの計画をした二度目は約一年後。ゴールデンウィークを利用しようと思った。友人が格安チケットを扱う旅行代理店で働いていたから、彼女に約二ヵ月前に航空券を頼んだ。 人気のインドに二ヵ月前から頼んだのは… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171115235231j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171115/20171115235231.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171115235231j:plain" /></p> <p> ‘インドに行きたい’と初めて思ったのは、一九九二年の秋だった。しかし、インドとの相性は悪かった。その年、一九九二年の十二月、出発直前にヒンドゥー教徒とイスラム教徒間の対立で暴動がおこり、何やら危険なムードが漂った。暴動はインド各地に拡大した。ネパールに入って様子を見てからインド入りを決めようかとも思ったが、暴動は一向に沈静化する気配を見せず、結局はインド行きを諦め、東南アジアを中心に回った。</p> <p> インド行きの計画をした二度目は約一年後。ゴールデンウィークを利用しようと思った。友人が格安チケットを扱う旅行代理店で働いていたから、彼女に約二ヵ月前に航空券を頼んだ。</p> <p> 人気のインドに二ヵ月前から頼んだのはそもそも遅い。それに私のリクエストは多岐にわたっていた。休みをとれる期間の中で、できるだけ長くインドに滞在したかった。しかも安く。そのためには、成田、関西か福岡(その時、私は熊本に赴任していた)-デリーまたはカルカッタ間でインド滞在がもっとも長くなる発着便を選ぶ。とはいっても安くあげるために、航空会社を選び、大幅に値段が下がるのなら、香港、あるいはバンコクで乗換えも考えた。そして、熊本から関西あるいは成田までの国内移動分の航空券が、国際線を使うことによって割り引かれるものにもしたかった。</p> <p> この中で一番満足できるものを探すのは、結構手間と時間がかかる。ただでさえゴールデンウィークを控え客の多い中、とうとうチケットは取れなかった。</p> <p> 三度目に計画したのはその年の年末年始だった。三度目の正直だった。しかし、なんと秋に虫歯が原因で手術をすることになるという嘘のような本当のことがおこり、有給休暇は使い果たしてしまった。</p> <p> 四度目はその次の年のゴールデンウィーク。今度は二か月半以上前から頼んだが、まだ遅かったらしい。利用したい便はすべてキャンセル待ちだった。それでも、結局はとれるだろうと高をくくっていたが、一ヵ月を切り、一週間を切ってもまだとれない。時間と金の条件を緩めて、キャンセル待ちを増やしていったが一向に効果はなかった。ネパールやスリランカから入ろうとしても予約で一杯だった。またもやダメか。そう諦めかけていたとき、</p> <p>「チケット取れたよー」</p> <p>と連絡が入った。今度こそは航空券をとろうと頑張ってくれた友人の繰り返しのプッシュのおかげで、ついに滑り込むことが出来た。</p> <p> インド行きの格安チケットを連休期間に取るのは難しい。</p> <p> </p> <p> 次回は、このブログの始まりで書いた「<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/why_backpacker">何故バックパッカーになるのだろうか?</a></u>」、「<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/why_hard-journey">何故ハードな旅をするのか</a></u>」を突き止めて行きます。</p> koyoblog インドは甘くない hatenablog://entry/8599973812313241580 2017-11-16T19:00:00+09:00 2017-11-16T19:00:24+09:00 飛行機では、日本人の若い夫婦と隣になった。彼らは私の風体を見て、とても興味を覚えたようだった。 「話には聞いたことあるのですが、あなたは一人でまわって来たんですか。宿の予約もとらずに」 「ええ」 控え目に答えはしたのだが、彼らの見せる驚きの表情は、バックパッカーをとても喜ばせる類のものであった。聞かれるままに、私は旅の思い出話をべらべらとしゃべり続けた。 「インドの一人旅なんて、簡単には真似できませんね。危険なこともあるでしょう。それに、健康を保ち続けるのが難しいのではないですか。私たちなんてパック旅行なのに、すぐにお腹を壊してしまいました」 奥さんも、隣で深く頷いている。自分としても腹を壊さ… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171031233713j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171031/20171031233713.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171031233713j:plain" /></p> <p> 飛行機では、日本人の若い夫婦と隣になった。彼らは私の風体を見て、とても興味を覚えたようだった。</p> <p>「話には聞いたことあるのですが、あなたは一人でまわって来たんですか。宿の予約もとらずに」</p> <p>「ええ」</p> <p>控え目に答えはしたのだが、彼らの見せる驚きの表情は、バックパッカーをとても喜ばせる類のものであった。聞かれるままに、私は旅の思い出話をべらべらとしゃべり続けた。</p> <p>「インドの一人旅なんて、簡単には真似できませんね。危険なこともあるでしょう。それに、健康を保ち続けるのが難しいのではないですか。私たちなんてパック旅行なのに、すぐにお腹を壊してしまいました」</p> <p>奥さんも、隣で深く頷いている。自分としても腹を壊さなかったのは大満足だった。心の中で‘いやーそれほどでも。あっはっはっは’と大きく笑っていた。</p> <p> しかし。</p> <p> インドはそんなに甘くない。乗客が寝静まった夜、“そんなはずはない”としばらく我慢してはみたのだが、とうとう耐え切れずトイレに行った。ついにきた。調子に乗るとろくなことはない。ただ、それほどひどくなく、涼しい顔を保っていることは出来た。エアコンで冷えたかな。</p> <p> しかし。</p> <p> インドはそんなに甘くないのだ。日本に降り立ち検疫を通り過ぎ、成田エクスプレスで横浜についてから、またもやきた。ちょっと今回は並の腹痛ではない。トイレになんとかたどり着いた。そして、分かった。並の痛さではないはずだ。赤かった。私の便は赤かった。</p> <p> 日本の人々は、まず赤痢なんて持ち込まれていない、と思っているだろう。たとえ赤痢患者がでたとしても病院に隔離されている、と考えているだろう。だが、実際は野放し状態の時もあるようだ。</p> <p> その後、実家で三日間寝込んだのであった。</p> <p> </p> <p>ハードなんだ。インドって。</p> koyoblog 再会して驚き hatenablog://entry/8599973812313239670 2017-11-14T19:00:00+09:00 2017-11-14T19:00:36+09:00 「やあ、久しぶり」 小林君だ。出国審査を終え、出発ロビーで休んでいる時だった。彼とはたまたま帰りの飛行機も同じだったのだ。彼は幾分やせたように見えた。 「どうだった?どこに行ってきた?」 自分の行けなかった町の話を聞きたかった。私と違う旅の経験を聞きたかった。 「それがさ」 何かあったようだ。トラブルにでも巻き込まれてしまったのか。 「あの後、すぐに赤痢になったんだ」 「えっ」 パスポートを盗まれた、とかいう答えの十倍は驚いた。何でまた赤痢なんかになってしまったのか。 「アグラで会ったあの日に、運転手に勧められて生野菜を食べちゃったんだ」 何度も、生ものは口にしてはいけない、と言ったのに。 「… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170518005812j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170518/20170518005812.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170518005812j:plain" /></p> <p> 「やあ、久しぶり」</p> <p><u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/buddy_Kobayashi">小林君</a></u>だ。出国審査を終え、出発ロビーで休んでいる時だった。彼とはたまたま帰りの飛行機も同じだったのだ。彼は幾分やせたように見えた。</p> <p>「どうだった?どこに行ってきた?」</p> <p>自分の行けなかった町の話を聞きたかった。私と違う旅の経験を聞きたかった。</p> <p>「それがさ」</p> <p>何かあったようだ。トラブルにでも巻き込まれてしまったのか。</p> <p>「あの後、すぐに赤痢になったんだ」</p> <p>「えっ」</p> <p>パスポートを盗まれた、とかいう答えの十倍は驚いた。何でまた赤痢なんかになってしまったのか。</p> <p>「アグラで会ったあの日に、運転手に勧められて生野菜を食べちゃったんだ」</p> <p>何度も、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/caution_foodanddrink">生ものは口にしてはいけない、と言ったのに</a></u>。</p> <p>「その日のうちに腹がおかしくなってきてさ、次の日病院に行ったら赤痢だって言われた」</p> <p>「で、どうした」</p> <p>「そのまま入院した」</p> <p>何てことだ。</p> <p>「何日間?」</p> <p>「三日間」</p> <p>それにしても、とんだ目にあったものだ。</p> <p>「大変だったね」</p> <p>「せっかくインドに来たのに、デリーなんてまったく見てない」</p> <p>とっても残念なことである。しかしながら、小林君はその災難を淡々と語った。淡々とした彼が、デリーについて感じたことを聞きたかった。</p> <p> 小林君は退院してからヴァラナスィーに行った。そこで彼は肝炎にかかった日本人に会ったそうである。その肝炎の日本人はインドに来て一年だった。彼は、肝炎にかかって約半年経つのだが、病院には通っていなかった。「これからどうするの」と聞いたら、「特には考えてない」という答えが返ってきたらしい。かなりのつわものである。そのつわものは、もはや、あちらの世界、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/chaos">混沌</a></u>の世界に足を突っ込んでいるのだろう。特に考えようとせず、そのまま放浪を続ければ、もう二度と戻っては来られない。赤痢にかかったって、日本に戻り、秩序ある生活に戻れれば良いのだ。小林君は無事に出発ロビーにいるのだから、それなりに良かったのだ。</p> koyoblog 助けられて一人旅は続く、カンボジア内戦の終わり~その2 hatenablog://entry/8599973812312236924 2017-11-12T19:00:00+09:00 2017-11-12T19:00:02+09:00 プノンペンの独立記念塔に続く大通りの両脇には、ぎっしりと人々が並んでいた。町に住むありったけの子供たちの白いシャツで、ずっと先まで真っ白だ。おのおのシアヌーク殿下やミッテラン大統領の写真、それに両国の国旗を掲げ、嬉しそうに待ちわびている。ベトナム戦争後にこの国を襲った悲劇は、その時、彼らの顔からは感じられなかった。押しかけた人々を整理しているのは、青いベレー帽の部隊国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の人だった。彼らの言うことは、皆、素直に守る。 「ワーッ」 すごい歓声が起こった。ついに来たのか、いや確かに高級車は見えてきたが、まだまだ先だ。その歓声は、外国人旅行者がバイクで道を通ったから… <p> プノンペンの独立記念塔に続く大通りの両脇には、ぎっしりと人々が並んでいた。町に住むありったけの子供たちの白いシャツで、ずっと先まで真っ白だ。おのおのシアヌーク殿下やミッテラン大統領の写真、それに両国の国旗を掲げ、嬉しそうに待ちわびている。ベトナム戦争後にこの国を襲った悲劇は、その時、彼らの顔からは感じられなかった。押しかけた人々を整理しているのは、青いベレー帽の部隊国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の人だった。彼らの言うことは、皆、素直に守る。</p> <p> <strong>「ワーッ」</strong></p> <p>すごい歓声が起こった。ついに来たのか、いや確かに高級車は見えてきたが、まだまだ先だ。その歓声は、外国人旅行者がバイクで道を通ったからだった。ましてや警備にあたっているUNTACのジープが通った時などは、さらにすごい。カンボジア人にとってUNTACは平和をもたらしたヒーロー達だ。何百万人も死んだ泥沼の内戦を終結させようと助けに来てくれた、ヒーローなのだ。そしてUNTACがヒーローであるなら、外国人は、その平和のヒーローを生み出した恩人であった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171029000649j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171029/20171029000649.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171029000649j:plain" /></p> <p> そしてついに二人がやって来たとき、熱気は最高潮に達した。写真は高く掲げられ、旗は‘バサバサバサッ’と音を立て、赤と青がはためいた。皇室の結婚のパレードは盛り上がるが、それとは質が違う。いつ殺されるか分からない不安な日々が、ついに終わりを告げようとしているのだ。命に関わる、まさに心からの叫びである。何人も車の後を追いかけた。私も興奮して車を追いかけた。人が走るよりはやや早いスピードだから離されるばかりだが、それでも興奮して車を追いかけた。初めての経験だった。平和を喜ぶ大歓声であり、これから新しい国を造っていこうとする人々の希望に満ちた熱狂が、メインストリート一帯を覆った。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171029000735j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171029/20171029000735.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171029000735j:plain" /></p> <p> そして、そこには、パキスタンからも北朝鮮からも国連平和維持活動(PKO)の兵士が来ていた。彼らは、彼らの国でさえも様々な問題があり、そして、貧しい。それでもカンボジアを助けに来ていた。いろんな政治的配慮もあるだろうが、助けに来ていたことに違いはない。</p> <p> このカンボジアの人々の熱狂、そして様々な国から部隊が派遣されてきている状況の中で、日本からPKOに人が出ていて本当に良かった、と思った。出ていなかったら肩身の狭い思いをしただろう。自分もPKOに参加している国の人間なのだ、と思ったとき、誇りを感じたし、とても嬉しかった。</p> <h3>助け合うとき</h3> <p> 内線の最中カンボジアの人々は打ちひしがれ、死に怯えた目を持っていたのだろうか。これはネパールで見た<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/resigned_eyes">諦めた目</a></u>より、悲惨だ。豊かでなくていい、希望もなくていい、‘せめて生きたい’という目なのだから。その悲惨さの残像は物乞いに見える。カンボジアには地雷を踏んだ片足のない物乞いがいた。旅をしていて差が分かってきたが、物乞いというのはその国を映し出すものだ。例えば、豊かなマレーシアではぴんぴんしていた。日本では、空き缶を置いて「お恵みを」という時代ではなくなった。ところが、逆に貧しいネパールではひどかった。スワヤンブナートという所に今にも死にそうな物乞いがいた。赤ちゃんを抱えた女の人だ。彼女は階段にはいつくばり、震えながら上体を起こした。手を合わせ、涙を浮かべて、必死に目で‘生きたい’、‘子どもを生かして欲しい’と訴えた。私はポケットからお金を渡した。</p> <p> バックパッカーは<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/driveamotorbike_fast">いろんな人に助けを借りながら</a></u>、旅を続ける。そして、つまずきながらも自分の足で歩いて行く。様々な問題を抱えた国がある。皆、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/unclouded_eyes">自分のことは自分でやる。余計な援助はいらない</a></u>。しかし、助けなきゃならない瀬戸際もある。どこの国だろうが、なに人だろうが。</p> <p> その時に、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Indian_and_Japanese">インドだとか日本だとか</a></u>はなくなるのだ。</p> koyoblog 助けられて一人旅は続く、カンボジア内戦の終わり~その1 hatenablog://entry/8599973812312233394 2017-11-09T19:00:00+09:00 2017-11-09T19:00:16+09:00 これまでいろんな国を一人で旅してきた。無事でいるために、何でも一人でしなければならない。自分の安全は自分で慎重に守らねばならない。食べるものも泊まる部屋も探して歩かねばならない。だが、自分が今までやってきたことはほとんど通じない。常識も、習慣も。そのときその瞬間に雰囲気を感じ取って、手を打たねばならない。どう行動するのが適当なのかは、その国に行ってから敏感に嗅ぎ分けねばならない。疲れ切ってきつくても、その日にどうしても必要なことはやらねばならない。不安でも自信があるように見せて、気を張って行動しなければ相手につけ込まれる。それだから一人旅はきついけれども、逆に言えば、その緊張感とスリルがたまら… <p> これまでいろんな国を一人で旅してきた。無事でいるために、何でも一人でしなければならない。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/thrill_or_dead">自分の安全は自分で慎重に守らねばならない</a></u>。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/caution_foodanddrink">食べるもの</a></u>も<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/without_warning">泊まる部屋</a></u>も探して歩かねばならない。だが、自分が今までやってきたことはほとんど通じない。常識も、習慣も。そのときその瞬間に雰囲気を感じ取って、手を打たねばならない。どう行動するのが適当なのかは、その国に行ってから<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/gut">敏感に嗅ぎ分け</a></u>ねばならない。疲れ切ってきつくても、その日にどうしても<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/washing">必要なことはやらねばならない</a></u>。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/darkness_two">不安でも自信があるように見せて、気を張って行動しなければ相手につけ込まれる</a></u>。それだから一人旅はきついけれども、逆に言えば、その緊張感とスリルがたまらなく面白い。裸の自分の力を試せる充実感がある。</p> <p> しかし一方で、一人旅をして、一番痛烈に感じることは何かと言えば、</p> <p>‘一人だけで出来ることは限られている’</p> <p>ということだ。どんなに自力で頑張っても、誰も手助けしてくれなかったら、旅など続けられない。誰かが教えてくれるから、誰かが助けてくれるから、宿に泊まり、食事をし、無事に町を歩いて回れるのだ。人に尋ねて、それが本当かどうかを判断するのは自分だ。いい加減な人はいる。嘘をつく人もいる。でも、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Kali_Temple">ちゃんとした答えが返ってくるまで、三人でも四人でも聞けばいい</a></u>。だが、誰一人として何も教えてくれなければ、立ち往生してしまう。たとえ、シヴァにしても、私は助けられている。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Indian_and_Japanese">土産物を買わないと見るや</a></u>、車から放り出すことも、地元のギャング団に身ぐるみはがさせることも出来たのだ。とりあえず、アグラに行ってデリーに戻ってこられた。それだけでもシヴァには旅の手伝いをしてもらった。一人旅はある面孤独である。しかし、それだからこそ、現地の人々にいろんなことを聞くし、ゲストハウスや<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/fruitjuice_shop">食堂に集まる世界中のバッグパッカー同士は情報交換をする</a></u>。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/KUMAR">様々な人に出会い助けられて</a></u>一人旅は続けられていくのだ。</p> <p> </p> <h3>内線の終わり</h3> <p> そして、これは旅行者だけの話しではない。</p> <p> 今まで訪れた中で、最も素朴で純粋な人々の国。一九九三年二月、第一回目の総選挙を五月に控えたカンボジアでのこと。</p> <p> カンボジアに着いたとき、ポチェントン空港には赤い絨毯が敷かれ、シアヌーク殿下とフランスのミッテラン大統領の絵が大きく掲げられていた。丁度、ミッテランがカンボジアを訪れる日だった。</p> <p> フランスはかつてカンボジアを植民地にした、ベトナム戦争からのカンボジア内戦の悲劇の一因ともなった、国である。この悲劇はポル・ポト派(=<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/KhmerRouge">クメール・ルージュ</a></u>)が実権を握ってから、私たちの想像を絶するものとなった。クメール・ルージュは敵対する人々をことごとく殺し、さらには、知識人たちを殺した。子供を幼いころから洗脳し、小学生ぐらいの子供に武器を持たせ、洗脳しにくい大人を殺させた。自分の親でさえ子供たちは殺してしまった。そして、クメール・ルージュの恐怖政治が危うくなりかけた頃、殺戮はさらにエスカレートし、だれ彼構わず民衆を毎日何百人も殺した。あちこちの村が全滅し、ついに、国民は元の四分の三から三分の二くらいまでになってしまった(それ以下という説もある)。殺された人の数は、二百万人とも三百万人とも言われている。多くの人が親類の中に殺された人がいたに違いない。クメール・ルージュがプノンペンを追われた後も泥沼の内戦は続いたが、ついに争い合った四派の間で和平協定が結ばれ、国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の元総選挙が行われることになったのだった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171028235657j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171028/20171028235657.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171028235657j:plain" /></p> <p> フランスのことを、カンボジアの人々はどう思っているのか。良い感情はもっていないかもしれない、そう思った。だが、実際は違った。そんなこと言っていられないほど、内戦の悲劇は生易しいものではなかったのだ。</p> koyoblog アジャイが怒鳴られた hatenablog://entry/8599973812311324555 2017-11-07T19:00:00+09:00 2017-11-07T19:00:45+09:00 財布が底をつきそうになっていても、AJAYは空港まで送ってくれると言った。高くつく直通バスではなく、普通のローカルバスに乗り込んだ。これがまた体力のいるバスなのであった。もちろんエアコンなどなく、目一杯に人が乗り込んでくる。四十度のデリーですし詰めである。とてつもなく汗が吹き出す。ただでさえ暑苦しいのに、なんかがちゃがちゃしたインドの歌が、音響の悪いスピーカーでがんがんにかかる。さらに疲れが増してくる。ローカルバスだから、あっちこっちに停車するし、くねくねと遠回りをする。ぎゅうぎゅう詰めのバスで一時間以上かかってやっと空港に着いた。ぎゅうぎゅう詰めの人々とがんがんの歌とめちゃくちゃの暑さ。過剰… <p> 財布が底をつきそうになっていても、AJAYは空港まで送ってくれると言った。高くつく直通バスではなく、普通のローカルバスに乗り込んだ。これがまた体力のいるバスなのであった。もちろんエアコンなどなく、目一杯に人が乗り込んでくる。四十度のデリーですし詰めである。とてつもなく汗が吹き出す。ただでさえ暑苦しいのに、なんかがちゃがちゃしたインドの歌が、音響の悪いスピーカーでがんがんにかかる。さらに疲れが増してくる。ローカルバスだから、あっちこっちに停車するし、くねくねと遠回りをする。ぎゅうぎゅう詰めのバスで一時間以上かかってやっと空港に着いた。ぎゅうぎゅう詰めの人々とがんがんの歌とめちゃくちゃの暑さ。過剰だ。過剰なのだ。暑苦しいのである。</p> <p> 早いとこ空港で休みたかった。だが、私に続いて入ろうとしたAJAYが警備兵に引っ掴まれた。そして大声で怒鳴られた。AJAYの顔色が変わったから、かなりの罵倒だったのだろう。ひどい。彼は良い奴だ。そんじょそこらのインド人とは比べものにならないくらい良い奴だ。それなのに、彼より数倍汚らしい私はすんなり入って、AJAYは罵倒された。</p> <p>「彼は私の友達なんだ」</p> <p>やっと警備兵は声を張り上げるのを控えた。しかし、AJAYは入れてもらえなかった。私はパスポートを見せたわけではない。だが、AJAYとの差は歴然としている。警備兵は同じインド人なのだが、インド人には厳しいのである。まず、盗みが目的の人を入り込ませないためだろう。そして、旅行者相手に小銭を稼ぐ人をなくすためだろう。だから、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/airport">到着したとき、ポーター料をとるために無理矢理荷物を持つ人もいないし</a></u>、インドはそれなりに進んでいる国でもあるようだ、と思った。でも、そのためにAJAYは怒鳴られた。旅行者のためにやってくれているのだが、それにしてもひどい扱いだった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171025234157j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171025/20171025234157.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171025234157j:plain" /></p> <p> 結局、AJAYとは空港の端の食堂で落ち合うことにした。そこなら、外からも自由に入れた(その食堂と空港内に通じる出入口には、警備兵は立っていなかった。どこかが抜けている国である)。空港内では他の日本人からしかめっ面をされたりする汚い私だったが、その私は空港の中を歩きAJAYは外を歩いた。</p> <p> バスで汗を出し切った二人だったから、喉はからからである。お互いジュースを三杯も立て続けに飲んだ。飲みながら、彼は、MR. AJAY SHARMAそして住所、と手紙の宛名、宛先に書くままの形で、私のボロボロの旅行安全情報の冊子の裏に書いた。そして何度も、</p> <p>「帰ったら手紙を書いてくれよ」</p> <p>と言った。私はその度に、</p> <p>「必ず書くから」</p> <p>と答えた。</p> <p> 日も暮れてきた。ローカルバスがなくなってしまうかもしれない。AJAYとの別れである。</p> <p>「すぐに手紙を書いてね。サヨウナラ」</p> <p>「ナマステ」</p> koyoblog デリーは好きか hatenablog://entry/8599973812311321166 2017-11-05T19:00:00+09:00 2017-11-05T12:34:28+09:00 「君みたいなインド人にはあまり会わなかった」 彼はすぐに意味が分かった。 「そうなんだ。デリーの人間は旅行者を見れば、金をとることしか考えない」 そう言いながら、彼は眼下の町に目をやった。 「そして、汚くて、騒がしい」 下では人が蠢いている。汚い建物が並ぶ。泥棒バザールが見える。その先にはニューデリー駅がある。まだ、盲目の笛吹き、白人の物乞いは同じ所にいるのだろう。その先のメインバザールは今日も人で賑わっているのだ。「さっき会っただろ。俺のこと覚えているか」なんて声がまたかかっているかもしれない。運転手のシヴァはまた仕事をもらっているだろうか。 騒がしい町だった。 「でも南へ行けば違う。親切な… <p> 「君みたいなインド人にはあまり会わなかった」</p> <p>彼はすぐに意味が分かった。</p> <p>「そうなんだ。デリーの人間は旅行者を見れば、金をとることしか考えない」</p> <p>そう言いながら、彼は眼下の町に目をやった。</p> <p>「そして、汚くて、騒がしい」</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171025232941j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171025/20171025232941.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171025232941j:plain" /></p> <p>下では人が蠢いている。汚い建物が並ぶ。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/thieves_bazaar">泥棒バザール</a></u>が見える。その先にはニューデリー駅がある。まだ、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/chaos">盲目の笛吹き、白人の物乞い</a></u>は同じ所にいるのだろう。その先の<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/hot_MainBazaar">メインバザールは今日も人で賑わっている</a></u>のだ。「<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/purveyor">さっき会っただろ。俺のこと覚えているか</a></u>」なんて声がまたかかっているかもしれない。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Siva_scolded">運転手のシヴァはまた仕事をもらっているだろうか</a></u>。</p> <p> 騒がしい町だった。</p> <p>「でも南へ行けば違う。親切な人は沢山いるよ」</p> <p>私が見たインドはまだほんの一部だ。</p> <p>「<a href="http://www.koyoblog.com/entry/doyoulike_India">デリーは嫌いだ</a>」</p> <p>AJAYが言った。</p> <p>“でも何故か魅力があるんだ”</p> <p>私は心の中で呟いていた。</p> <p> ジャマー・マスジッドから出て、汚い露店が並ぶ一角を通り抜け、二人でコーラを飲んだ。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Siva">さっと瓶の口を指で拭いて</a></u>、一気に飲み干した。美味い。最高の一本である。</p> <p> その後はバスに乗って、一緒に<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/anotherworld_ConnaughtPlace">コンノート・プレイス</a></u>に向かった。エア・インディアのオフィスで直接リコンファームをするためである。AJAYがいろんな人に聞いてオフィスを見つけ出してくれた。広々としてとても綺麗で、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/thieves_bazaar">電話がなかなか通じなかったなんて</a></u>嘘のようだ。手続きもあっという間に終わった。それから、土産のダージリンティーを店で買った。AJAYとインド庶民の行く店を探したから、同じ商品でも空港で売っている価格の三分の一しかしなかった。</p> <p> コンノート・プレイスの裏通りを歩いていると、</p> <p>「これ買わないか」</p> <p>と、白人の旅行者が所持品を売りにきた。透明のビニール袋に入れた、彼の最後の所持品である。汚い服やポーチとかで、ろくなものはない。それでも彼にとっては、旅をしていく上で大事なものだ。彼はニューデリー駅にいた老人のように物乞いとなるのだろうか。股間の破けたパンツを履き、十ルピーに目を見張る生を過ごそうというのか。笑顔はまだ明るく、足取りにも力があるが、これを売った所で数日過ごせる程度の金にしかならないだろう。その後彼はどうなるのか。そんなことを私は考えた。AJAYは、良いものがあるかちょっと物色した。</p> <p>昼食をとるために、ファーストフードに向かった。その時AJAYは私の手を握った。友達の印である。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/scenery_whilewalking">インドでは男同士が手をつなぐ</a></u>。ハンバーガーを頬張りながら聞いてみた。</p> <p>「男女がデートで手をつないで歩いたりしないの?」</p> <p>彼は、まったくありえないという風に、大きく首を振った。やっぱりそうだろう。手をつなぐどころか、デートをしている光景も私はついに見なかった(当時)。</p> <p>「これからどうなるかは分からないけれど、今じゃまったく考えられない」</p> <p>将来男女で手をつなぐようになっても、男同士でも手をつなぎ続けるのだろうか。</p> <p> AJAYの財布の中身は空に近かった。さっき私にコーラをおごった時も、心配そうに財布を覗いていた。それに、インドのファーストフードは金持ちの集まる高級な店である。</p> <p>「俺が払うから」</p> <p>と安心してもらって入ったが、彼は遠慮して少ししか口にしなかった。遠慮深いインド人もいるのだ。</p> koyoblog アジャイ AJAY hatenablog://entry/8599973812311316641 2017-11-02T19:00:00+09:00 2017-11-02T19:00:38+09:00 「あなたは日本人ですか」 そんな時近づいてきたのは、大学生AJAY SHARMA だった。それなりに綺麗な白いシャツにベージュのスラックス、革靴、そして黒縁眼鏡に緑と白のキャップ。腕時計までしている。なるほど大学に行ける位の金を持っていそうだ。それに、彼の目には人を見定めるような影はない。その話し方もいい加減なところはない。休みを利用して、南の内陸の方から親戚の家に遊びに来ているらしい。どうやら、金目当てで近づいてきたのではなく、ただ暇な休みに外国人と話したいだけのようだ。 AJAYとは年齢も近いので話がはずんだ。そんな時、今度は近くに座っていたおやじが話しかけてきた。頭にぴったりとフィットす… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171025231416j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171025/20171025231416.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171025231416j:plain" /></p> <p> 「あなたは日本人ですか」</p> <p>そんな時近づいてきたのは、大学生AJAY SHARMA だった。それなりに綺麗な白いシャツにベージュのスラックス、革靴、そして黒縁眼鏡に緑と白のキャップ。腕時計までしている。なるほど大学に行ける位の金を持っていそうだ。それに、彼の目には人を見定めるような影はない。その話し方もいい加減なところはない。休みを利用して、南の内陸の方から親戚の家に遊びに来ているらしい。どうやら、金目当てで近づいてきたのではなく、ただ暇な休みに外国人と話したいだけのようだ。</p> <p> AJAYとは年齢も近いので話がはずんだ。そんな時、今度は近くに座っていたおやじが話しかけてきた。頭にぴったりとフィットする帽子をかぶった小柄な男だ。彼は仕事で日本に行ったことがあるという。YOKOという日本人と友達で、その人はインド人と結婚したそうだ。もの静かな口調の彼は、日本語が少し分かるので話しやすかった。だが、AJAYは彼とはあまり話しをしようとしない。とりあえずAJAYとジャマー・マスジッドをぐるりと見て回ることにして、おやじとは後でとてもうまいらしいチャーを飲みにいくことにした。しかし、AJAYが言うには、‘彼はガイドである’らしい。つまり、案内した後で金を請求するということだ。日本に出稼ぎに行き、帰国した後は、その時覚えた日本語を使ってガイドをやっているのか。ガイドといえば聞こえはいいが、親切で案内しているかのように見せて、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/It%E2%80%99s_India">後で料金を請求するというパターンである。そして、土産物屋に連れて行く</a></u>。<span style="text-decoration: underline;"><a href="http://www.koyoblog.com/entry/carpetshop_trick">ここはアグラではない。町の交通手段はすでに分かった土地であり</a></span>、次の目的地空港には、今日中に自力で行ける。もはや、ガイドは恐れるに足らず。まあ、本当にガイドかどうかは分からないが。私としては、AJAYの方が年齢も近くて面白そうなので、おやじは後で断ることにした。</p> <p> 「尖塔の上に登れるんだろうか」</p> <p>私がふともらすと、AJAYはすぐに登れることを聞いてきてくれた。登るには金が少しかかったが、それぞれ自分の分は自分で出すことにした。ここの感じで彼は確実に信用できると思った。私に二人分払わせようとするなら彼もガイドであるし、私の分も払おうとしても裏がありそうだ(<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/Siva">シヴァも最初はおごった</a></u>)。財布を心配そうに覗き込みながら金を払った彼は、どう見ても悪人ではない。</p> <p> 尖塔に入るには、日なたのレンガの上を一時歩かねばならなかった。この熱さはとても耐えられないものだったが、彼にはまったくその気配がない。</p> <p>「熱くない?」</p> <p>と聞いても、</p> <p>「少しね」</p> <p>と答えるだけである。学生であっても、<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/sharp_feature">インド人は足の裏の皮が厚いようだった</a></u>。日なたでは耐えられなくてぴょんぴょん飛び跳ねていると、彼は“そんなオーバーな”という風だった。</p> <p> 足の裏の熱さと厚さはどうも理解できなかったようだが、彼は写真を撮るのを手伝ってくれたり、重いバックパックを持ってくれたりと、とても親切だった。狭い尖塔の階段を登る時は途中で代わろうとしても、どんどんバッグを持って行ってしまった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171025233149j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171025/20171025233149.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171025233149j:plain" /></p> <p> 尖塔は上まで登るとこれがかなりの高さであった。しかも、人が登れる最高の高さの所は、尖塔の直径一メートル程の周りに、人ひとり分のぎりぎりのスペースがあるだけである。その囲いは膝の高さ程だ。尖塔はジャマー・マスジッドの境界に位置していて、モスク内部の広場側までの高さは二十メートル、モスクの外側までは四十メートルある。つまずいて足を踏み外せば一巻の終わり。突風が吹いてバランスを崩せば一巻の終わり。そこに腰掛け、AJAYと話した。</p> koyoblog 泥棒バザールを抜けてジャマー・マスジットへ hatenablog://entry/8599973812311311547 2017-10-31T19:00:00+09:00 2017-10-31T19:00:23+09:00 デリーに戻ってきた。なぜか懐かしくほっとする。東南アジアを回ったときも、旅の中心地となったバンコクに戻る度にほっとした。デリーはからっとしている。この気候もカルカッタよりいい。 バスに乗ってニューデリー駅まで行く。少し歩いてから、暑さに負けて人リクシャーに乗った。向かうはジャマー・マスジッド。インド最大のモスクである。以前に行ったラール・キラーの近くにある。 チャウリー・バザールという細い道に入りモスクが近づいてくると、顔を黒い布で覆った女性が増えてきた。薄手の布で向こうからこちらは見えるのだろうが、こちらから顔はまったく見えない。 宗教的な雰囲気が色濃くなっていくのだが、このチャウリー・バザ… <p> デリーに戻ってきた。なぜか懐かしくほっとする。東南アジアを回ったときも、旅の中心地となったバンコクに戻る度にほっとした。デリーはからっとしている。この気候もカルカッタよりいい。</p> <p> バスに乗ってニューデリー駅まで行く。少し歩いてから、暑さに負けて人リクシャーに乗った。向かうはジャマー・マスジッド。インド最大のモスクである。以前に行ったラール・キラーの近くにある。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171025225437j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171025/20171025225437.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171025225437j:plain" /></p> <p> チャウリー・バザールという細い道に入りモスクが近づいてくると、顔を黒い布で覆った女性が増えてきた。薄手の布で向こうからこちらは見えるのだろうが、こちらから顔はまったく見えない。</p> <p> 宗教的な雰囲気が色濃くなっていくのだが、このチャウリー・バザールというのは別名泥棒バザールとなっている。泥棒が多いのだ。狭い道に人が密集している所で、リクシャーはよく立ち往生してしまう。スリには絶好の場所でありそうだ。それに、ここで売っているものの中には、盗んできたものが置いてあるそうだ。宗教的な聖なるものと、盗みという俗も俗なるものが混ざり合っている道である。ここにもインドの多様性が出ている。</p> <p> ジャマー・マスジッドは丁度礼拝の時間になるところだった。もちろん、イスラム教徒でないと入れない。その間、日本行き航空券のリコンファームをすることにした。電話屋(電話が置いてあり、かかってからの時間を計って料金をとる)を探し、エア・インディアに電話した。それが、エア・インディアの対応はまったくもってひどかった。応対の話し方がなってないというのではない。それ以前である。まず電話が繋がらないのだ。なかなか繫がらない。三回目に一分間は鳴らし続け、やっと繋がった。ところが「リコンファーム、プリーズ」の一言だけ話してから、「ジャストアモーメント」と待たされた。それから三分も出てこない。切ってしまった。こっちは時間が延びれば延びるほど金をとられるのだ。それからまたなんとかつなげた。今度こそはと、「リコンファーム、デリートゥトーキョー、トゥデイ~」と一気にまくし立てた。だが、またしても向こうはジャストアモーメントと叫び、電話口から離れた。今度は五分待って切った。インドの航空会社の最王手、エア・インディアでもスムーズに事は運ばない。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171025225544j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171025/20171025225544.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171025225544j:plain" /></p> <p> そうこうしているうちに時間が経ったので、リコンファームはとりあえずおいといて、ジャマー・マスジッドに入った。階段を昇れば、草野球ができそうな広さの広場に入る。ここに人が集まり祈りを捧げる。しきたりに従い裸足で入ったため、とても熱い。ラージ・ガートと同じだ。むしろの通路を歩いても、熱くてしかたがない。インド人の足の裏はやっぱり厚い。赤レンガの上だってゆっくり歩いている人がいる。こっちは耐えられないので、モスクの日陰に腰を下ろした。</p> koyoblog ダムダム空港 hatenablog://entry/8599973812309538574 2017-10-29T19:00:00+09:00 2017-10-29T19:00:00+09:00 タクシーのおじさんに八十五ルピー渡し、釣りは受け取らずにダムダム空港に入った。デリーから到着したときは気づかなかったが、空港は結構綺麗で感じが良かった。カウンターのお姉さんはとても親切だった。朝の光が差し込み、人もまだまばらですっきりしていて、温度もちょうどよく、快適だった。 しかし、荷物検査は不快だった。 「カメラのシャッターを押しなさい」 なんのことだかよく分からないが、私の足に向けて写真を一枚撮った。 「カメラの電池を出しなさい」 これもなんのことだかよく分からないが、従うしかない。しかし、出そうとしてもなかなかうまく取り出せなかった。 「もういい。バッグを開けなさい」 拳銃をぶら下げた… <p> タクシーのおじさんに八十五ルピー渡し、釣りは受け取らずにダムダム空港に入った。デリーから到着したときは気づかなかったが、空港は結構綺麗で感じが良かった。カウンターのお姉さんはとても親切だった。朝の光が差し込み、人もまだまばらですっきりしていて、温度もちょうどよく、快適だった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171019231347j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171019/20171019231347.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171019231347j:plain" /></p> <p> しかし、荷物検査は不快だった。</p> <p>「カメラのシャッターを押しなさい」</p> <p>なんのことだかよく分からないが、私の足に向けて写真を一枚撮った。</p> <p>「カメラの電池を出しなさい」</p> <p>これもなんのことだかよく分からないが、従うしかない。しかし、出そうとしてもなかなかうまく取り出せなかった。</p> <p>「もういい。バッグを開けなさい」</p> <p>拳銃をぶら下げた係員は懐中電灯を引っ張りだした。そして、乾電池を取り出して、なんといきなりごみ箱へぶん投げた。</p> <p>「何やってんだよ!」</p> <p>係員は反抗的な私を睨み付けてからそっぽを向いた。</p> <p>「どういうことだよ。色んな国の空港に行ってるけど、こんなことされんの始めてだぞ。カルカッタだけだ、こんなの!」</p> <p>虚しき抗議はまったく聞き入られなかった。一体どういうことだ。</p> <p> 係員は、‘あれを見ろ’と表示板を指さした。箇条書きで何やらいろいろ書いてあって、その中に“乾電池はもちこめない”とあった。思うに、きっと爆弾を警戒してのことだ。そんなに物騒なのか、カルカッタは。薬を打っている奴はいた。共産党が赤旗を振り回して走っていた。前者はともかく、後者が問題なのか。それとも他のゲリラか、過激派か、はたまた宗教対立に根を持つ何かか。よくは分からないが、様々な問題を孕んだ町であったようだ(当時)。</p> <p> 町は物騒だったが、飛行機はそんなことを感じさせない、まったくの別天地だった。というのも、今までになかった程、スチュワーデスが美人揃いだったのだ。インド人は目鼻立ちがはっきりしていて美人だ、と言うのは何度か聞いていたし、写真や映像を見れば、美人だろうというのは分かっていた。しかし、実際にインドに入ると、巨大化した人が多くとても美人と呼べるどころではなかった。だが、始めて‘これは美人だ’という人を見た。しかも三人。やっぱり目鼻立ちがはっきりした美人だ。</p> <p> なお、男の方は注目していないので書くことはないが、背はアジアが低く中でも東南アジアが低い。その点でも私は東南アジアの人に同化し、現地人に間違えられる。</p> <p> </p> koyoblog 鉄格子の部屋を出る hatenablog://entry/8599973812309537561 2017-10-26T19:00:00+09:00 2017-10-26T19:00:43+09:00 翌朝は早く起きた。デリーに戻る便が八時だったからだ。六時に部屋を出た。もちろん部屋の前で寝ている使用人は、足を動かされても起きはしなかった。粗末なロビーの床に寝ている人を起こして、宿の出口を開けてもらった。‘Timestarよ、さようなら。’その独房部屋を忘れることはないだろう。 早朝に空港に行く人間を見越して、タクシーはサダル・ストリートに並んでいた。二台目で、空港から来たときと同じ料金である八十三ルピーが通った。その運転手のおじさんは頭にターバンを巻き、白髪の髭と鬚を厚くたくわえたシーク教徒だった。茶色の縁の眼鏡の奥には、柔和な目が覗く。 「八十三だからね」 と念を押すと、大丈夫だというふ… <p> 翌朝は早く起きた。デリーに戻る便が八時だったからだ。六時に部屋を出た。もちろん<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/barredroom">部屋の前で寝ている使用人</a></u>は、足を動かされても起きはしなかった。粗末なロビーの床に寝ている人を起こして、宿の出口を開けてもらった。‘<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/foulsmell">Timestar</a></u>よ、さようなら。’その<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/barredroom">独房部屋</a></u>を忘れることはないだろう。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171019231046j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171019/20171019231046.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171019231046j:plain" /></p> <p> 早朝に空港に行く人間を見越して、タクシーはサダル・ストリートに並んでいた。二台目で、空港から来たときと同じ料金である八十三ルピーが通った。その運転手のおじさんは頭にターバンを巻き、白髪の髭と鬚を厚くたくわえたシーク教徒だった。茶色の縁の眼鏡の奥には、柔和な目が覗く。</p> <p>「八十三だからね」</p> <p>と念を押すと、大丈夫だというふうに頷いた。この頷きに嘘はない、と分かった。念を押せばどの国でも誰でも頷く。その頷き方を見ていれば、信用できるか、嘘をついているのかは大体分かるようになっていた。何度も聞くと怒る人もいる、逆に微笑みを浮かべる人もいる。しかし、それが本当なら、その頷き方は確信に満ちている。嘘ならば頷き方に安定感がない。途中で放り投げるような頷き方だったり、心がこもっていなかったりする。まったく下心が無い場合、隙があればだまくらかそうと思っている場合、最初から約束を守る気が無い場合、その三種類は大体分かる。ただし、インドの場合、よく分かっていなくても頷いたり、最初の約束を忘れてしまったりするケースが数多く出てくるので、複雑になってくる。でも、この時は、このおじさんは安心できる人だ、とすぐに分かった。</p> <p> 車中では、またそれぞれの身の上話をした。最初に「結婚しているのか」と聞かれた。旅をする度に結婚について聞かれる回数は増えてきた。ホノルルマラソンを走ったときは「Hey! He is a kid! Go!」なんて、子供だと見られて応援されたけれど、自分では気づかないうちにだんだん歳をとっているのだ、やっぱり。</p> <p> 「この道は、バングラディッシュまで続いているんだ」</p> <p>おじさんは言った。バングラディッシュまで。このまま行ってしまったらどうなるだろう。そんな状況を思い浮かべた。“バングラディッシュではどこに行こうか。とても貧しい国らしいし、一人旅をしたという話はあまり聞いたことがないから、宿を探すのにも、食堂を探すのにも苦労するんだろうな。そして、通り抜けて次はどこの国に向かおうか”。旅のことを思えばきりがない。</p> koyoblog バイクで飛ばせ hatenablog://entry/8599973812308310897 2017-10-24T19:00:00+09:00 2017-11-14T22:25:21+09:00 舞台は長く、夜の七時から始まり、九時になっても終わらなかった。私はとても時間が気になっていた。Timestarに帰り着くためには、麻薬中毒者と、旅行者にじとっと目を向ける人の間を、通り抜けねばならないからだ。でも、もしホール出てしまえば面白いものを見逃すかもしれない。期待を込めて三時間も粘った。しかし、いつまでも退屈だった。 十時きっかりに会場を抜け出した。地下鉄は運転を終えていた。サダル・ストリートまでは、二駅分で二キロメートルも離れていない。歩いても二十分程度だ。途中でちょうどいいバスでも見つかったら乗ってしまおう。私は歩きはじめた。ホールに来た方向と逆に進みさえすればいい。何のことはない… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171015222346j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171015/20171015222346.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171015222346j:plain" /></p> <p> 舞台は長く、夜の七時から始まり、九時になっても終わらなかった。私はとても時間が気になっていた。Timestarに帰り着くためには、麻薬中毒者と、旅行者にじとっと目を向ける人の間を、通り抜けねばならないからだ。でも、もしホール出てしまえば面白いものを見逃すかもしれない。期待を込めて三時間も粘った。しかし、いつまでも退屈だった。</p> <p> 十時きっかりに会場を抜け出した。地下鉄は運転を終えていた。サダル・ストリートまでは、二駅分で二キロメートルも離れていない。歩いても二十分程度だ。途中でちょうどいいバスでも見つかったら乗ってしまおう。私は歩きはじめた。ホールに来た方向と逆に進みさえすればいい。何のことはない。真っ直ぐに歩いた。ただ真っ直ぐ。簡単なはずだった。しかし、道はなぜか寂しくなってきた。カルカッタでは中心的な大通りであるはずなのに、なぜか寂しくなる。</p> <p> 私は道が緩やかに曲がっているとか、曲がり角が三回もあれば、向かうべき方向は分からなくなってしまう。一度分からなくなると、元来た道を戻れなくなることもしばしばである。方向感覚の良い人にとってはまったく理解しがたいことだろうが、私にとっては正しい方向はまったく見分けがたい。頭の中で地図を描いたりもしてみたが、効果はない。それでいて十年ぶりくらいに通る道を、感覚を頼りに歩いてみればしっかり目的地についてみたりする。不思議である。</p> <p> 大通りを真っ直ぐという簡単なことではあったけれども、きっと地下鉄のあった四つ角で間違ったのだ。四つ角だから、当たる確率は四分の一。元に戻れるか。戻ったとしてもあと三つ。</p> <p> その時、運が良いことに警官が通りがかった。</p> <p>「サダル・ストリートってどっちですか」</p> <p>間抜けな質問である。二キロメートル程離れている所からサダル・ストリートの方角を単に聞いているのだ。しかし、警官はさすがにプロである。こういった困った奴に対処する最善の方法が分かっていた。バイクに乗った警官を呼んでくれたのだ。</p> <p> でっかくて恰好いいバイクだった。その後ろにまたがった。夜のカルカッタを警察のバイクで飛ばせるなんて。警官とはそれぞれの身の上話を軽くしたりなんかして盛り上がった。‘爽快だ!’脳天気な夜だった。</p> koyoblog 何が何だか hatenablog://entry/8599973812308309931 2017-10-22T19:00:00+09:00 2017-11-11T22:35:27+09:00 トラベラーズチェックを換金してくれ カーリー寺院の後は、トラベラーズチェックを現金化するために銀行に行った(キャッシュをあまり持ちたくないので、両替はこまめにやる。東南アジアでは安宿街によく両替所があって便利だった)。人に聞いたところで、なかなか銀行を見つけられなかったのは言うまでもない。さらには、銀行を見つけても、トラベラーズチェックなど使えなかったりした。たとえトラベラーズチェックを使えたとしてもアメリカン・エキスプレスでないと駄目なところも二行あった。そんなこんなで、やっと、持っていたVISAのトラベラーズチェックを使える場所を見つけたのだが、十時に開店しても、それから業務の準備をやりだ… <h5>トラベラーズチェックを換金してくれ</h5> <p> カーリー寺院の後は、トラベラーズチェックを現金化するために銀行に行った(キャッシュをあまり持ちたくないので、両替はこまめにやる。東南アジアでは安宿街によく両替所があって便利だった)。人に聞いたところで、なかなか銀行を見つけられなかったのは言うまでもない。さらには、銀行を見つけても、トラベラーズチェックなど使えなかったりした。たとえトラベラーズチェックを使えたとしてもアメリカン・エキスプレスでないと駄目なところも二行あった。そんなこんなで、やっと、持っていたVISAのトラベラーズチェックを使える場所を見つけたのだが、十時に開店しても、それから業務の準備をやりだして、長々と待たされることとなった。そこの銀行の業務はルーズだが、警戒は厳重だった。行内にはライフルをもった警備兵がそこかしこに立っているし、特に外貨を扱う所は金網で区切られている。その金網の中で、ライフルを持った男と小一時間程待った。やっと業務が始まり、これまた鉄柵で仕切られた窓口に呼ばれたのだが、よくよく話をしてみれば(よくよく話をした後であったはずなのだが)、そこはキャッシュを両替するだけであった。またまた銀行を変えて、やっとトラベラーズチェックを現金に換えた。そこの警備は一転してゼロに近く、人がごったがえす中で、渡したパスポートはその辺の机に平気で置いたりなんかする。まったくよく分からない国だ。何度も何度もよく分からないことが続くが、やっぱり何度でもよく分からないのである。</p> <p> </p> <h5>錯覚の公園</h5> <p> 昼寝をしてからインド民族舞踊を見るためにでかけた。またマイダン駅で降り、向かって右の公園側に出た。その公園の先にはヴィクトリア記念堂が見えた。これは、白くてミニ・タージマハールのようである(インドの白い建物はなんでも<span style="text-decoration: underline;"><a href="http://www.koyoblog.com/entry/the_TajMahal">タージマハールを連想</a></span>してしまう)。公園の芝と合わせてみると、なかなかの綺麗さである。これは思わぬところでいいものを見られた、と得した気分にもなり、その記念堂に向かって公園の中を歩きたくなった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171015221913j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171015/20171015221913.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171015221913j:plain" /></p> <p> が、歩いてみれば、真っ直ぐには進めなかった。綺麗だなんてのは目の錯覚でしかなかった。何故なら、芝生の上は糞だらけなのだ。そこに、あそこに、またここに。そこら中に。何だこれは。どれだけの犬がここでしているのだろう。いや、犬だけか。牛も、いやいやそれだけだろうか。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/darkness_two">道路沿いにあれだけ人が寝ているのだ</a></u>。ここにだって寝ているだろう。ということは。錯覚の公園を裸足で歩く人々、寝ころがる人々。インドは死に近い国、である。そして、インドは糞にも近い。</p> <h5>汚いのは自分だった</h5> <p> インド民俗舞踊のホールは、対照的にとても綺麗な所だった。会場を埋める人々も小綺麗な恰好をしている。明らかに一番汚いのは私だった。袖が伸び、肩の上が切れ、白であったはずが何故か灰色になったTシャツ。紺から茶色がかってきたGパン。そしてサンダル。それにますます長くなった不精髭。ホールは金持ちの集まる所だった。そんな所に、旅行者である特権を使って、ただでもらったチケットを片手に入った私。</p> <p>「横にずれてもらえませんか」</p> <p>綺麗な恰好の女の人が、恐る恐る言った。知り合い同士で横に座れるようにである。インド人は、私にとって時に予想がつかない、状況によっては恐怖さえ感じる存在である。しかし今、私は彼女にとってそうだった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171015221948j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171015/20171015221948.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171015221948j:plain" /></p> <p> この日の舞台は、何かとても重要なもののようだった。最初にずらりとお偉方が舞台に上がり、挨拶をした。そして、授賞式が始まった。権威ある賞のようだ。受賞者は皆それなりに貫祿がある。一流って感じだ。貧富の差の大きいインドで、ここは富める人々が集まる場所だ。始まった舞踊も洗練されていて、上品な感じがする。とても質の高いものみたいだ。客は静かに見入った。スローな舞踊の時は、私は静かに寝入った。半分寝ぼけているものだから、写真を撮るときにストロボをオフにし損なって、真剣に見ている人を怒らせたりした。その人は係員を呼んで、何かをしきりに訴えていた。錯覚の公園では私は比較的綺麗で上品なはずだった。しかし、それは錯覚だった。<u><a href="http://www.koyoblog.com/entry/unclouded_eyes">貧しさは他者との比較によって生まれる</a></u>。</p> <p>何が何だか分からなくなってくる。</p> koyoblog 死に近い国 hatenablog://entry/8599973812307366248 2017-10-19T19:00:00+09:00 2017-10-19T19:00:08+09:00 焼かれる死体を、その灰をかぶる位に間近で見た。ネパールのパシュパティナートだった。小さな川の横、組まれた丸太の上に、白い布でくるまれ更にオレンジ色の布をかけられた死体が横たわる。僧侶らしき人が死体の口に何かをつけ、その周囲を回ってから、足の上の布を持ち上げて蝋燭を左右に振る。そして布から頭を出し、口に火をつけた。燃えやすいように藁が置かれ、火は死体全体を包んだ。白い煙が上がる。匂いはしなかった。人生、生前の社会での役割、後に残されたもの、そんなものは感じない。ただ火をつけられたものが、自然の法則通りに燃えている。僧侶は去り誰もいなくなった。燃える死体に何か特別なものを感じ、解釈しようとしている… <p> 焼かれる死体を、その灰をかぶる位に間近で見た。ネパールのパシュパティナートだった。小さな川の横、組まれた丸太の上に、白い布でくるまれ更にオレンジ色の布をかけられた死体が横たわる。僧侶らしき人が死体の口に何かをつけ、その周囲を回ってから、足の上の布を持ち上げて蝋燭を左右に振る。そして布から頭を出し、口に火をつけた。燃えやすいように藁が置かれ、火は死体全体を包んだ。白い煙が上がる。匂いはしなかった。人生、生前の社会での役割、後に残されたもの、そんなものは感じない。ただ火をつけられたものが、自然の法則通りに燃えている。僧侶は去り誰もいなくなった。燃える死体に何か特別なものを感じ、解釈しようとしているのは、死が隠蔽された所から来た観光客だけだ。カソウバの周りで暮らす人々は、いつもの生活を続けている。焼け残ったものを流している川で、カソウバの二十メートル下流で、服を洗い、食器を洗っている。</p> <p> </p> <p> インドでは、死が身近である分だけ、死への油断といったものもあるのではないだろうか。日本の常識では考えられない光景を見た。彼らはビルのペンキ塗りごときに命懸けで臨んでいるのだ。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171014115917j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171014/20171014115917.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171014115917j:plain" /></p> <p> 壁を塗るのだったら、先進国ならゴンドラを使うだろう。しかし、彼らはそんな便利なものは使わない。足場を組んでいる。しかも、その足場というのは、竹同士を紐で括り付けただけなのだ(当時)。その竹で組まれた足場を窓枠に紐で括り付けて、ビルから離れないようにしている。竹同士の間隔は縦に一メートル、横は三メートル。縦横に交差している。ただそれだけだ。その足組みが十五階程のビルに張りついている。十五階だ。そこを裸足の人間がするすると登っていく。バケツと刷毛を持って。命綱などない。一本の竹の上に乗って、片手を竹に回し、片手で塗る。これは分かりきっているけれども、はっきりいって相当危ない。かなり揺れるだろうし、かなり滑るだろう。竹の上に立ち、十五階から下を眺めたところを想像してみる。めまいがしてくる。日本なら、竹を伝わって上に登るだけでもテレビに出られるだろう。鉄パイプで組み、幅五十センチの通路を付け、階段まであったとしても、剥き出しの足組みで十五階までは登るまい。そんなことをして事故など起こったものなら、責任者は訴えられ有罪となるかもしれない。それに引き換え、インド人の死への感覚はどうなっているのか。ペンキ塗りの命など、ゴンドラを取り付ける、あるいは、しっかりした足場を組む費用と手間に比べれば及ばないのか。インド全土で毎月何人のペンキ塗りが落ちて死んでいくのだろう。まったくもって信じられない。死への距離がとことん近い所だ、インドって国は。</p> koyoblog 山羊 hatenablog://entry/8599973812307365867 2017-10-17T19:00:00+09:00 2017-10-17T19:00:20+09:00 その時丁度、儀式の始まりを告げる太鼓が打ち鳴らされた。人が儀式場の回りに集まってきた。儀式場といっても、二十センチ位の低い石に囲まれた六畳程のコンクリートスペースだ。そこに二十センチ位離された高さ一メートル程の木材が二本立てられている。その木材の間には厚い角材が挟まれていて、山羊の首が置かれる台となっている。そして、両側の木材に開けられた穴に棒が通されて、首の上が抑えられる。この穴は上から五つも開いている。上の四つは首を抑えるには高すぎるので、木の台がどんどんすり減ってきたのではないかと思われる。毎日毎日、一体何百年やっているのだかは知らないが、木がすり減る程、哀れな山羊の首ははねられ続けてい… <p> その時丁度、儀式の始まりを告げる太鼓が打ち鳴らされた。人が儀式場の回りに集まってきた。儀式場といっても、二十センチ位の低い石に囲まれた六畳程のコンクリートスペースだ。そこに二十センチ位離された高さ一メートル程の木材が二本立てられている。その木材の間には厚い角材が挟まれていて、山羊の首が置かれる台となっている。そして、両側の木材に開けられた穴に棒が通されて、首の上が抑えられる。この穴は上から五つも開いている。上の四つは首を抑えるには高すぎるので、木の台がどんどんすり減ってきたのではないかと思われる。毎日毎日、一体何百年やっているのだかは知らないが、木がすり減る程、哀れな山羊の首ははねられ続けているのだ。</p> <p> 動物は自分の命が危険に晒されているならば、それをきっと察知するだろう。ましてや、仲間の血の匂いのするところに連れて来られているのである。何だかとても不安な気持ちだろう。山羊の鳴き声には元気がない。人にひょいっと持ち上げられると、無駄な抵抗で力なく足をばたつかせ、哀しく</p> <p>「めー」</p> <p>と鳴いた。かぽっと首をはめられて、尻尾と後ろ足を引っ張られると苦しそうに舌を出した。そして小さな声で、また</p> <p>「めー」</p> <p>と鳴いた。そこへスパン、となたがおろされる。あっけない。体はぱたんと下に落ち、首ははさまれたままに引っ掛かっている。黒い山羊の首の切り口は、ほんのりピンクがかった赤である。そして、真っ赤な血がだらだらと流れる。この血が有り難いものらしい。人々は指にとり額につけたりなんかして手を合わせている。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171014115727j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171014/20171014115727.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171014115727j:plain" /></p> <p> いけにえとは、血をありがたく額につける人間とは、いかなるものか。そして、それを見に来た観光客(私)はいかに。(普段肉を食べてますけどね)</p> <p> その後スパン、スパン、スパンと山羊の首ははかなく落とされた。全部終わると、太鼓打ちの年老いた坊主頭の男は不敵に笑った。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171014115759j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171014/20171014115759.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171014115759j:plain" /></p> <p> 文明が発達すると死が遠くなるという。文明にとって死は忌まわしきものであり、覆い隠されるようになった。日本で死はタブー視されて語られることは少なくなる。北米ではエンバーミングといって手術までして死体は綺麗に整えられる。ところが、インドは死が近い。死んだ人が川べりで焼かれるし(隣国ネパールでは道の途中の広場で焼かれていたこともあった)、路上では死んだ人が転がっていた。そして、いけにえの儀式。死への距離は確実に近い。身近だ。</p> koyoblog カーリー寺院 hatenablog://entry/8599973812307365330 2017-10-15T19:00:00+09:00 2017-10-15T22:42:35+09:00 人リクシャーを捕まえて、地下鉄のパーク・ステーションに向かった。朝のこの時間には、水を浴びる人がそちこちで見える。これはネパールでもそうだった。そして何故そちこちで見えるかといると、道端で浴びているからだ。歩道の途中にいきなり井戸があって、その周りで水を浴びたり、石鹸で身体を洗ったりしている。女の人も薄い着物をまとって浴びたりしていて、少しばかり透けていたりする。一方ではイスラム教の女の人が顔さえ見せないのに、一方では透けている。胸丸出しで歩いている物乞いのお婆さんもいた(これは例外?)。こんな所にもインドの多様性が見える。 しかし、殆ど統一されていることもあった。それは運ちゃんが言われた所に… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171014114902j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171014/20171014114902.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171014114902j:plain" /></p> <p> 人リクシャーを捕まえて、地下鉄のパーク・ステーションに向かった。朝のこの時間には、水を浴びる人がそちこちで見える。これはネパールでもそうだった。そして何故そちこちで見えるかといると、道端で浴びているからだ。歩道の途中にいきなり井戸があって、その周りで水を浴びたり、石鹸で身体を洗ったりしている。女の人も薄い着物をまとって浴びたりしていて、少しばかり透けていたりする。一方ではイスラム教の女の人が顔さえ見せないのに、一方では透けている。胸丸出しで歩いている物乞いのお婆さんもいた(これは例外?)。こんな所にもインドの多様性が見える。</p> <p> しかし、殆ど統一されていることもあった。それは運ちゃんが言われた所に行かないということである。またもや、人リクシャーは私の言ったパーク・ステーションに一回でたどり着かなかった。‘はいここだ’という風に停まった所は、まったく関係のない街角だった。</p> <p> もう一つ統一されているのは、道案内もいい加減ということだ。地下鉄カーリーガート駅で電車を降りてから、カーリー寺院までの道順を聞いても、三者三様まったく違う。きれいに三方向に別れた。有名な寺院らしいのに、そこにさえ簡単にはたどり着けない。もう一人に聞いて、確率が二倍になった方向にとりあえず向かった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171014115541j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171014/20171014115541.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171014115541j:plain" /></p> <p> どうやらその方向は合っていたようで、だんだん道は人通りが多くなり、ヒンドゥーの神をかたどった置物を売っている露店が軒を並べるようになった。人通りさえ多くなれば間違っていない。これが一番確実である。</p> <p> カーリーとはヒンドゥー教の神カーリー女神のことだ。そして、カーリー女神というのは、破壊神シヴァ(<a href="http://www.koyoblog.com/entry/whose_side">デリーのシヴァ</a>は<a href="http://www.koyoblog.com/entry/carpetshop_trick">タージマハールの一日を破壊</a>してくれた)の奥さんウマーが変化したもので、これがまたとても怖いらしい。人は彼女を満足させるためにいけにえを捧げる。このいけにえに選ばれているのが山羊である。山羊にとっては迷惑な話だ。だが、ヒンドゥー教の信徒にとっては大事な儀式である。そして、私にとっては観光スポットとなる。ヒンドゥー教徒には失礼で山羊には悪いが興味本位で見に行った。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171014115114j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171014/20171014115114.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171014115114j:plain" /></p> <p> 寺院に入ると、人でごった返していてなかなか前に進めない。信徒には建物の中にある女神に参拝することが大事で、その順番を待って院内には長い列が出来上がっている。しかし、私は儀式場を探して奥に奥にと進んだ。そして、いた。並べられた山羊が、血に染まった儀式場に結び付けられていた。</p> koyoblog 働いてお金をもらってはいけない、という教え hatenablog://entry/8599973812305149592 2017-10-12T19:00:00+09:00 2017-10-26T23:42:30+09:00 外に出て、辺りをうろうろしていると、さっき道案内をしてくれた少年がいた。 「彼女に会えた?」 「ああ、君のおかげだ。ありがとう」 そして、写真などを撮りながら少年と話をしていたが、そのうち彼は言いづらそうにしながら切り出した。 「お母さんが病気なんだ。元気をつけるためにミルクが欲しい」 本当であれ、嘘であれ彼が道案内という仕事をしたことに変わりはない。金を出してもいいと思った。 「君は案内をして働いたのだから、当然買ってあげてもいいよ」 すると少年は言った。 「僕は働いてはいない。働いたから買ってもらうんじゃないんだ」 どういうことだろう。意味がどうもつかめない。そういう様子を見て、少年はまた… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171005224613j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171005/20171005224613.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171005224613j:plain" /></p> <p> 外に出て、辺りをうろうろしていると、さっき道案内をしてくれた少年がいた。</p> <p>「彼女に会えた?」</p> <p>「ああ、君のおかげだ。ありがとう」</p> <p> そして、写真などを撮りながら少年と話をしていたが、そのうち彼は言いづらそうにしながら切り出した。</p> <p>「お母さんが病気なんだ。元気をつけるためにミルクが欲しい」</p> <p>本当であれ、嘘であれ彼が道案内という仕事をしたことに変わりはない。金を出してもいいと思った。</p> <p>「君は案内をして働いたのだから、当然買ってあげてもいいよ」</p> <p>すると少年は言った。</p> <p>「僕は働いてはいない。働いたから買ってもらうんじゃないんだ」</p> <p>どういうことだろう。意味がどうもつかめない。そういう様子を見て、少年はまた言った。</p> <p>「神様が、働いてお金をもらってはいけないって言うんだ」</p> <p>この辺一帯は、ミッショナリーズ・オブ・チャリティの教えが広められているに違いない。そしてミッショナリーズ・オブ・チャリティも、寄付によって活動している。</p> <p> 少年は雑貨屋まで私の手を引いていった。そこで彼の友達も二人寄ってきた。少年が事情を説明すると、二人ともそうだそうだと頷いて、</p> <p>「彼のお母さんのために買ってよ」</p> <p>と言った。八十ルピーの粉ミルクを買ってあげると、少年はそれを掴んで、家に向かって走った。</p> <p> その後、二人の友達も「僕たちも何か欲しい」と言ったが、彼らのお母さんが病気のわけではない。それに彼らは何も働いていなかった。ミッショナリーズ・オブ・チャリティの教えがあるのは分かっているけれども、やはり<span style="text-decoration: underline;"><a href="http://www.koyoblog.com/entry/forchildren_forus">働くことを知って欲しかった</a></span>。それに、寄付が寄せられているのは、シスター達がボランティア活動をしているからだ。何もしないでものをもらうという考え方を修道院で広めているわけではないはずだ。でも、そのあたりを説明するのは難しい。私が二人に言えたのは、</p> <p>「<a href="http://www.koyoblog.com/entry/unclouded_eyes">働かないと僕は買ってあげないよ</a>」</p> <p>ということだった。</p> koyoblog マザー・テレサ hatenablog://entry/8599973812305149185 2017-10-10T19:00:00+09:00 2017-10-10T19:00:21+09:00 修道女の多くは中庭で洗濯を始めた。そして数人は礼拝場に戻って、読書を始めた。私も折角だから礼拝場で静かに座禅でも組んでみることにした。 過去のことを考えてみようと思った。折角だから。自分の罪深い人生を省みるなんてことはしたこともないし、これからもまずしないだろう。それなら気分の乗っている今、ちょっとやってみようか、と思ったわけである。 私なりに深く罪を反省した。それなりに時間もたった。もうこんなとこだろう。そろそろ帰ろうか。立ちあがりつつ身体を反転させた。すると、なんとそこにはマザー・テレサが座って読書をしているではないか。“むむむっ、これはいったい。”またもや信じがたい。とにかく、反転しかけ… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171005224407j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171005/20171005224407.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171005224407j:plain" /></p> <p> 修道女の多くは中庭で洗濯を始めた。そして数人は礼拝場に戻って、読書を始めた。私も折角だから礼拝場で静かに座禅でも組んでみることにした。</p> <p> 過去のことを考えてみようと思った。折角だから。自分の罪深い人生を省みるなんてことはしたこともないし、これからもまずしないだろう。それなら気分の乗っている今、ちょっとやってみようか、と思ったわけである。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20171005224441j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20171005/20171005224441.jpg" alt="f:id:koyoblog:20171005224441j:plain" /></p> <p> 私なりに深く罪を反省した。それなりに時間もたった。もうこんなとこだろう。そろそろ帰ろうか。立ちあがりつつ身体を反転させた。すると、なんとそこにはマザー・テレサが座って読書をしているではないか。“むむむっ、これはいったい。”またもや信じがたい。とにかく、反転しかけた身体をまた元に戻した。</p> <p> マザー・テレサが、すぐ左斜め後ろで本を読んでいる。</p> <p> これは神(いるとしたら)の与えた巡り合わせの機会ではないのか。今こそ、話しかけるべきである。“そうだ話しかけるんだ。”そう心に決めた。</p> <p> では、何を話そうか。やはり、テーマは祈りについてだろう。しかしながら、それなりに考えることはあったにせよ、いざ本人を前にするとうまい言葉が見つからない。</p> <p>‘手の施しようの無い人を前にして貴方は祈るそうですが、誰のために祈るのですか’</p> <p>死にゆく人のため。自分のためとは言わないだろう。</p> <p>‘本当に祈ることが死にゆく人のためになると思いますか’</p> <p>失礼だ。</p> <p>‘その祈りによって神が何をしてくれるのですか’</p> <p>宗教を信じるかどうかの話だ。</p> <p>‘何故祈るのですか’</p> <p>やはりシンプルなこの辺に落ちつくだろう。</p> <p> 質問は決まった。</p> <p> “よし聞くぞ”と心に決めてぐぐぐぐっと身体を反転させた。すると、丁度振り返ったその時、マザー・テレサは静かに目を閉じ、頭を垂れた。“あれっ、瞑想に耽り始めたのかな”いや、どうもそういうふうには見えない。どちらかというと読書をしているうちに、うつらうつらとしてしまったかのような…。しかし、それにしてはどうも不自然な感じが…。まさか、でも、いや、そんなことはない。何か腑に落ちない感じはするが、そのままでいるのもなんだから、反転した身体をまたもや元に戻した。</p> <p>ここはどうしようか。起きるのを待とうか、それとも帰ろうか。そうこう思っているうちに、またマザー・テレサは本のページをめくり始めたのだった。“うーむ、どうも引っ掛かる。”でも、こんな機会はめったにいや二度とないのだから、もう一度やってみよう。</p> <p>“一、二の三”</p> <p> ぐぐっと今度はすこし早めに回した。するとまたもやマザー・テレサは、素早く目を閉じ、頭を垂れた。これはもう間違いない。寝たふりだ。あのマザー・テレサが、ノーベル平和賞のマザー・テレサが寝たふりをしているのだ。聖人、崇高なる精神の持ち主マザー・テレサ。しかし、やはり彼女も人間だ。いちいち旅行者の話に耳を傾けていてもきりがないから、寝たふりをすることにしているのだ。まあ、それはそうだろう。</p> <p> そのまま立ち上がった私は、すぐに廊下にでた。そして、自分の貴重な体験が本物であることを確かめたいがために、ゆっくりと廊下を進んだ。マザー・テレサは目を開け、まだ歩き去っていない人影を横目でちらりと見やった。</p> koyoblog マザー・テレサが現われた hatenablog://entry/8599973812302750679 2017-10-08T19:00:00+09:00 2017-10-08T19:00:29+09:00 マザー・テレサは現れた。後ろを振り返ると、旅行者の一人一人に記念品を手渡して歩く彼女がいた。間違いなく‘マザー・テレサ’だ。やっと彼女に会うことができた。 偉大な人、マザー・テレサ。しかし、彼女は小さい。そしてかなりの高齢だ。山折先生は、彼女はてきぱきと動いていた、と話していたが、今のマザー・テレサは老いたのかゆっくり歩いている。 それにしても信じがたい。礼拝している姿を垣間見るだけだろうと思っていたのに、今、私の方に向かってゆっくり近づいて来ているのだ。日本で著名な先生に三分間しか時間を与えなかったのに、旅行者に記念品を渡している。信じがたい。だが、目の前にいるのは紛れもないマザー・テレサで… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170929223817j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170929/20170929223817.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170929223817j:plain" /></p> <p> マザー・テレサは現れた。後ろを振り返ると、旅行者の一人一人に記念品を手渡して歩く彼女がいた。間違いなく‘マザー・テレサ’だ。やっと彼女に会うことができた。</p> <p> 偉大な人、マザー・テレサ。しかし、彼女は小さい。そしてかなりの高齢だ。山折先生は、彼女はてきぱきと動いていた、と話していたが、今のマザー・テレサは老いたのかゆっくり歩いている。</p> <p> それにしても信じがたい。礼拝している姿を垣間見るだけだろうと思っていたのに、今、私の方に向かってゆっくり近づいて来ているのだ。日本で著名な先生に三分間しか時間を与えなかったのに、旅行者に記念品を渡している。信じがたい。だが、目の前にいるのは紛れもないマザー・テレサである。しかも、なんとあのマザー・テレサが、旅行者と並んで記念撮影までしている。信じがたい。会うことも難しいはずだった聖なる人が、記念写真に収まっている。</p> <p> ついに私の所にマザー・テレサは来た。記念品をもらうときは、皆、ヨーロッパの貴族の挨拶のように、両膝を少し曲げ会釈をしている。これが礼儀なのだ。私もぎこちなくそれをやった。そして、無理につくった笑顔はさらにぎこちなかったに違いない。マザー・テレサは微かに口許を緩めながら、記念品を手渡してくれた。あくどい運ちゃんや、小賢しい詐欺師に出くわしてもそう簡単にはひるまないが、この時は確かに胸がドキドキした。</p> <p> もらったものは小さなペンダントで、アルミでできている軽いものだった。表には浮き彫りになっているマリア像があり、周囲には“O MARY CONCEIVED WITHOUT SIN PRAY FOR US WHO HAVE RECOURSE TO THEE”(“ああ、罪なく身ごもられたマリア様、あなたを頼みとする我等のために祈りたまえ”というところか)とある。裏には、十二の星に囲まれた十字架のようなものなどが形どられていた。世界中から集まってくる募金は、少しでも施設のために使いたいだろう。だが、毎日訪れてくる旅行者のために、このペンダントを渡してくれているのだ。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170929223839j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170929/20170929223839.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170929223839j:plain" /></p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170929223935j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170929/20170929223935.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170929223935j:plain" width="222" /></p> koyoblog ミッショナリーズ・オブ・チャリティ hatenablog://entry/8599973812302746867 2017-10-05T19:00:00+09:00 2017-10-05T19:00:01+09:00 そのマザー・テレサはカルカッタにいる。しかも、朝の礼拝の時間に行けば、その姿を見られるらしい。早起きしてタクシーに乗り込んだ。五分程で、大きい教会の前に着いた。運転手は指さして、 「マザー・テレサ」 と言った。だが、入ってみればその教会には誰もいなかった。一体マザー・テレサはどこに。またもや行きたい所に行けないのか。嫌な予感を感じつつ、手掛かりを探して教会をぐるりと回っていると、庭掃除のおじさんが近づいてきた。彼は何も聞かずに道路の反対側を指さし、 「マザー・テレサ」 と言った。 彼を信じ、とにかく反対側に渡った。だが、そこでもなかなか教会は見つからなかった。礼拝の時間が終わってしまうのではな… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170929223003j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170929/20170929223003.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170929223003j:plain" /></p> <p> そのマザー・テレサはカルカッタにいる。しかも、朝の礼拝の時間に行けば、その姿を見られるらしい。早起きしてタクシーに乗り込んだ。五分程で、大きい教会の前に着いた。運転手は指さして、</p> <p>「マザー・テレサ」</p> <p>と言った。だが、入ってみればその教会には誰もいなかった。一体マザー・テレサはどこに。またもや行きたい所に行けないのか。嫌な予感を感じつつ、手掛かりを探して教会をぐるりと回っていると、庭掃除のおじさんが近づいてきた。彼は何も聞かずに道路の反対側を指さし、</p> <p>「マザー・テレサ」</p> <p>と言った。</p> <p> 彼を信じ、とにかく反対側に渡った。だが、そこでもなかなか教会は見つからなかった。礼拝の時間が終わってしまうのではないかと心配になりながら小走りで探していると、少年が近寄ってきて、</p> <p>「マザー・テレサ?」</p> <p>と聞いてきた。頷くと、彼は私の手を引っ張って歩きだした。赤いシャツに赤いパンツをはいた彼は、日本でいえば小学校高学年位だろうか。きっと毎日こうやって案内をして、その代わりに小遣いをもらっているのだろう、と思った。でも、これは立派な仕事だ。小遣いは、はずんであげようと思った。</p> <p> マザー・テレサのいるところは、その門構えはまったく他の家々と変わらなかった。壁をよく見ればMISSIONARIES OF CHARITYと書いてある。そして小さなマリア像が壁にあった。大きい教会を探していたので、まったく目に入らなかった。少年は細い道に入り、脇の入口を、ここだ、と指さした。そして、お礼を言いお金を渡す間もなく、走り去っていった。</p> <p> </p> <p> 中に入っても誰もいない。そして、薄暗かった。きっとこっちだろう、と狭い階段を二階に上がっていくと、人の気配がしてきた。ここだ。二階の廊下には旅行者が十名位いた。部屋の中を覗いている。そこでは黒い服を着た男の人が説教をしていた。修道女はざっと五十人程だろうか。礼拝を行う部屋はその人数で一杯になるくらいの小さなものだった。その中の一体誰がマザー・テレサなのか。年齢の高い人に注目してみたが、どうも見覚えのある顔はなかった。</p> <p> そのうち修道女は全員座った。皮が厚くなった足の裏が見えた。旅行者達も廊下でちらほらと座り始め、私もそうした。そのうち片足の悪いおじさんがやって来て“中に入りなさい”と勧めた。彼はその場に会わない少し派手目の服を着ていて、物腰もその辺で商売をしているおやじという感じだった。彼は、私には誰と誰が日本人のシスターなのかを教えてくれた。ここの修道女たちは世界中から集まっている。その時日本人は二人いた。年齢は私と同じ位だ。彼女たちは日本からの名も無い代表だった。</p> <p> 説教が終わると、聖水をかけパンを口にふくませる儀式へと移った。修道女たちは並んで次から次へと進んでいく。それは年齢順のようだった。始めのほうに高齢の人達が並ぶ。そこに注目した。しかし、マザー・テレサは見当たらなかった。彼女はもはや退席してしまったのか。列はどんどん進み、ついに旅行者の中から儀式に参加した最後の白人も終わった。</p> <p> 修道女たちはパンを口に受けてから、立ち去った。いまや、誰も残っていない。</p> <p> マザー・テレサはいったい何処にいるのか。がらんとした礼拝場を前にして、私は諦めるしかなかった。残念だ。</p> <p> しかし、帰ろうとすると片足の悪いおじさんが私の肩を突っ付き、言った。</p> <p>「彼女がマザー・テレサだ」</p> koyoblog 祈る、とは hatenablog://entry/8599973812302744940 2017-10-03T19:00:00+09:00 2017-10-03T22:28:51+09:00 マザー・テレサ。多くの人がその名を知っているだろう。旧ユーゴスラビアからやってきて、修道会‘ミッショナリーズ・オブ・チャリティ(神の愛の宣教者たち)’を創設した。路上で死んでいく人々が人間らしく静かに死を迎えられるように、施設を提供している(1997年没)。さらには、身寄りのない子供を育てたり、ハンセン氏病患者のコミュニティーも作ったりしている。それらの活動は修道女とボランティア・ワーカーと募金によって行われる。一九七九年にはノーベル平和賞を受賞した。とにかくすごい人である。 大学のときに山折哲雄先生からマザー・テレサに会ってきた話しを聞いた。先生は日本では結構有名な宗教学者なのだが、マザー・… <p> マザー・テレサ。多くの人がその名を知っているだろう。旧ユーゴスラビアからやってきて、修道会‘ミッショナリーズ・オブ・チャリティ(神の愛の宣教者たち)’を創設した。路上で死んでいく人々が人間らしく静かに死を迎えられるように、施設を提供している(1997年没)。さらには、身寄りのない子供を育てたり、ハンセン氏病患者のコミュニティーも作ったりしている。それらの活動は修道女とボランティア・ワーカーと募金によって行われる。一九七九年にはノーベル平和賞を受賞した。とにかくすごい人である。</p> <p> 大学のときに山折哲雄先生からマザー・テレサに会ってきた話しを聞いた。先生は日本では結構有名な宗教学者なのだが、マザー・テレサと話す時間をとるのは大変だったらしい。頼み込んで三分間だけ時間をもらった。てきぱきと動くその姿は、宗教家というよりは実務家という印象だったそうだ。会うなり、「あなたの時間は三分です。どうぞ質問して下さい」と言ったそうだ。山折先生は、用意していたどうしても聞きたかったことを質問した。そのうちの一つはこれだ。</p> <p>「貴方がどんなに手を尽くしても、医者がどんなに手を尽くしても、もう助からない、という人を目の前にした時、貴方はどうしますか」</p> <p>それにマザー・テレサは答えて言った。</p> <p>「祈ります」</p> <p>私はその言葉の意味をそれなりに考えてみて、祈るという行為は、宗教を信ずる人の中で、いや、人間として、一番美しい姿なのではないか、と思った。自分の力の限界を感じた時、その人のためにただ祈るのだ。ただ祈るだけのその無力な姿にこそ、人間の究極の美があるのではないか。マザー・テレサの祈るさまを思い浮かべ、心を打たれた。</p> <p> しかし、それから、<a href="http://www.koyoblog.com/entry/unclouded_eyes">「少年の大きく澄んだ目」</a>に書いたとおり、支援活動の隠れたエゴを思い知らされるという出来事があった。支援には様々な活動があるが、私の行ったことは、相手のために良かれとしてやった寄付が逆に貧富の差を生み出し、または拡大することになり、さらには寄付を受ける人々の働く意欲を失わせるものだった。ところが寄付をした私は“自分は良いことをした”といい気になっていた。自己満足だ。相手には悪影響だった。そこから‘祈り’ということを考えてみると、その美しい姿が歪んできた。自分は無力だと分かってから祈るのだ。その祈りが相手になんの影響も及ぼさないことを分かっていながら、祈るのだ。相手への影響から見れば自己の世界で完結している。悲しかったり辛かったりする自分の気持ちを和らげるためだけに、さらには自分は何か相手のためにしているのだと思い込んで安心するために、祈るのではないか。</p> <p> 神の存在を信じない人々にとっては、神とは人間が考え出したものだ。私は祖先が見守ってくれていると信じているが、神は信じていない。だから、神は生命の誕生、死について、この世の誕生、いやこの世の存在自体について、何がしかの納得行く解釈ができるように、そしてまた生きて行く上で不安なことや辛いことを乗り越えるための心の支えとして考えだされた、と思う。とすれば、神は自己のためにある。そして、祈りも自己のためにある。</p> <p>一方、神の存在を信じる人々にとっては‘祈り’の意味が違う、ということもあるだろう。しかし、信じていない私にはよく分からない。実感がない。</p> <p> 祈るということはどういうことなのだろう。自己満足だろうか。自己満足は言い過ぎで相手を思う気持ちか。生きている人のためこそなのか、または何かの意味があるのか。その疑問はずっと持ち続けたままだった。</p> koyoblog 綺麗な町 hatenablog://entry/8599973812302449678 2017-10-01T19:00:00+09:00 2017-11-13T23:51:50+09:00 歩いてニューマーケットの方をぶらついてみた。Timestarから二百メートル程の所だ。そこは色々な小店舗が立ち並ぶ、庶民的な繁華街だった。カセットテープ屋、サリー屋、路上の風船屋。目が会えば、‘見ていけよ’と合図する人もいたが、声をかけてくる人は誰もいなかった。カメラを出したときだけ、何人かが注目したが、寄っては来ない。デリーではうるさくてしょうがないと思っていたが、今度は物足りなく感じてきた。勝手ではあるけれども。 そのうち雲行きが怪しくなり、夕立となった。食堂の軒先を借りて雨宿りをしながら、濡れていく道、傘などささない人々を眺めた。夕立はすぐにやんだ。雲は消え、夕陽の光が町にオレンジ色をか… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918220138j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918220138.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918220138j:plain" /></p> <p> 歩いてニューマーケットの方をぶらついてみた。Timestarから二百メートル程の所だ。そこは色々な小店舗が立ち並ぶ、庶民的な繁華街だった。カセットテープ屋、サリー屋、路上の風船屋。目が会えば、‘見ていけよ’と合図する人もいたが、声をかけてくる人は誰もいなかった。カメラを出したときだけ、何人かが注目したが、寄っては来ない。デリーではうるさくてしょうがないと思っていたが、今度は物足りなく感じてきた。勝手ではあるけれども。</p> <p> そのうち雲行きが怪しくなり、夕立となった。食堂の軒先を借りて雨宿りをしながら、濡れていく道、傘などささない人々を眺めた。夕立はすぐにやんだ。雲は消え、夕陽の光が町にオレンジ色をかけた。</p> <p>‘綺麗だなー’</p> <p>“綺麗”?この雑然としたインドの町が?</p> <p>一体何を感じているのだ。わけが分からない。いい加減と病原菌が幅をきかすインドの町を、裏通りでは注射を回し打ちしているカルカッタの町を、こんな風に感じるなんて。不思議だった。極端なものを連日見すぎて、混乱しているのだろうか。一つ一つの極端な場面に意味をもたせようとするから混乱するのか。</p> <p>ほんの一瞬の感情だったが、綺麗な夕陽に照らされる、綺麗な町だった。</p> <p> </p> <h5>Blue Sky Cafe</h5> <p> 『Blue Sky Cafe』つまり青空食堂。でも屋根のついているちゃんとした食堂だ。薄暗いけれども明かりはついているし、所々こわれているけれど、テーブルも椅子もある。かったるそうな給仕も料理人もいる。ちゃんとしている。そしてフルーツジュースもある。値段は手頃。客はサダル・ストリートの住人たちである。煙草を吸いながらぼけっとしている人、旅行者同士で情報交換をしている人達、旅慣れしていない若い男女五、六人は、ぼろを着た旅行者の様子を横目で伺いながら話をしている。見た目は汚いけれども、旅行者達が集まっているのだから、細菌の繁殖は抑えられているのだろう。ちゃんとしていた。物乞いが中に入り込もうとして、給仕に止められた。健全たる、安宿街の食堂だった。ネパールでも飲んだラッシー(ヨーグルトに砂糖と水を混ぜた物。ほとんど甘さはない)と、いつも食べているフライドライスを注文した。いい食堂を見つけた。味さえ問わなければ、カルカッタでの食事は安泰だ。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918220159j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918220159.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918220159j:plain" /></p> koyoblog 洗濯 hatenablog://entry/8599973812299272986 2017-09-28T19:00:00+09:00 2017-09-28T19:00:19+09:00 外はすっかり暗くなっていた。Timestarに向かう細い道に入った。そこには何やらうごめく影。闇に紛れたインド人たちだ。一人の白目が月に反射して輝いた。憎しみに満ちた目が、じっとこちらを見据えた。いつものように、なに食わぬ顔で、胸を張り、足早に通り過ぎた。今日はもう外に出ることはやめよう。そう思った。 宿での夜は、服と身体を洗う時間だ。服はシャワー室や水道を使って洗う。石鹸をつけごしごしと手揉み洗いをする。そして、ぐいぐいっと思いっきり絞って、用意してきた紐にかける。それで終わり。シャツとパンツと靴下を洗う程度なら十五分もあればこと足りる。しかし、ズボンを洗うとなると結構大変だ。この日は時間も… <p> 外はすっかり暗くなっていた。Timestarに向かう細い道に入った。そこには何やらうごめく影。闇に紛れたインド人たちだ。一人の白目が月に反射して輝いた。憎しみに満ちた目が、じっとこちらを見据えた。いつものように、なに食わぬ顔で、胸を張り、足早に通り過ぎた。今日はもう外に出ることはやめよう。そう思った。</p> <p> 宿での夜は、服と身体を洗う時間だ。服はシャワー室や水道を使って洗う。石鹸をつけごしごしと手揉み洗いをする。そして、ぐいぐいっと思いっきり絞って、用意してきた紐にかける。それで終わり。シャツとパンツと靴下を洗う程度なら十五分もあればこと足りる。しかし、ズボンを洗うとなると結構大変だ。この日は時間もあったし、カルカッタの湿気でかなり履き心地が悪くなっていたから、その洗濯にとりかかった。ズボンが何故大変かというと、それは分かりきったことだが、洗う範囲が広いということと重いからだ。石鹸をつけるのにも、揉むのにも、絞るのにも時間がかかる。しかも、私がはいていたのはGパンであった。</p> <p> Gパンをはくのは、はっきり言ってアホなことである。現地で安い薄手のパンツを買えばいいのだが、そうするとGパンを持って歩かなければならなかった。移動の多い旅では、たかだかGパンでも重い。それなら最初から軽いパンツでインドに来ればいいのだが、手頃なのは持っていなかったし、ボロボロのGパンを使うには丁度いい機会だったのだ。結局アホな理由であることに変わりはない。</p> <p> そのやっかいもののGパンは水分を含むと、これがかなり重い。さらに絞るのはこれが結構きつい。固いので疲れるし、水滴はなかなか落ちてこない。乾きにくいものなので、シャツなんかよりしっかり絞っておかねばならないのだが、絞りにくい。目一杯絞っていって、それを横に思い切り引っ張るとポタポタと落ちてくる。それを何度も繰り返し、絞り上げていくのだ。最後の一滴まで落とそうとすれば、握力と背筋を鍛える手頃なトレーニングである。汗びっしょりになって、大仕事を仕上げた。</p> <p> 明かりを消して床に就くと、外の人の気配がすぐ気になった。一階の屋根の上を歩いている。しかも三、四人はいそうだ。だが、どこの屋根かは分からない。Timestarのかもしれないし、隣の家のかもしれない。窓には鉄格子がついているから大丈夫ではあるが、気味はあまりよくない。目を開けると人が覗いていた、なんて想像すればぞっとする。自分の部屋に近づいてくるとどうしても聞き耳を立ててしまう。外を見ても暗闇のインド人はどこにいるか分からない。おかげで三十分は寝つけなかった。</p> <p> 翌朝起きてみれば、その人達は隣の屋根の上をねぐらとする人々であった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918220309j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918220309.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918220309j:plain" /></p> koyoblog 多様な人々 hatenablog://entry/8599973812299271323 2017-09-26T19:00:00+09:00 2017-09-26T19:00:13+09:00 カルカッタで中心的な道路となるチョーロンギー通りには、地下鉄が走っている。カルカッタを動くには、この地下鉄を使うとすごく便利だ。サダル・ストリートの近くにはパーク・ストリート駅があった。まずは、その駅に向かった。 Timestarからは二分も歩けばチョーロンギーに出る。そこは片側二車線の大通りだ。歩道も五メートルはある。その歩道にでかい絵を描いているおじさんがいた。キリストの絵だ。縦二メートル半、横一メートル半はある。その絵は、白、赤、ピンク、オレンジ、黄色、青を使い、鮮やかな衣服をまとったキリストがチョークで描かれていた。そして絵の一番上には“HELP ME”と書かれている。なかなか上手い。… <p> カルカッタで中心的な道路となるチョーロンギー通りには、地下鉄が走っている。カルカッタを動くには、この地下鉄を使うとすごく便利だ。サダル・ストリートの近くにはパーク・ストリート駅があった。まずは、その駅に向かった。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918215901j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918215901.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918215901j:plain" /></p> <p> Timestarからは二分も歩けばチョーロンギーに出る。そこは片側二車線の大通りだ。歩道も五メートルはある。その歩道にでかい絵を描いているおじさんがいた。キリストの絵だ。縦二メートル半、横一メートル半はある。その絵は、白、赤、ピンク、オレンジ、黄色、青を使い、鮮やかな衣服をまとったキリストがチョークで描かれていた。そして絵の一番上には“HELP ME”と書かれている。なかなか上手い。ありがたいキリストの絵であるからか、その上には硬貨が沢山投げ込まれていた。絵を描いたおじさんは、敬虔なキリスト教徒なのか、賢い商売人なのかは分からない。だが、側で遊んでいる子供たちは、この絵からの利益で暮らしているのだろう。キリストは彼らを助けていた。</p> <p> 地下鉄は近代的で綺麗かつ安全だ。改札は自動化が進んでいる。大きなゴミは落ちていないし、入口に警備員が立っているからホームレスは一切入り込んでいない。アメリカ合衆国にあるような汚く危ない地下鉄(当時)ではない。</p> <p> それに乗って、一つ先のマイダン駅まで行った。インフォーメーションで舞踊のチケットとカルカッタの地図を得るためだ。十分ほど歩くとそこに着いた。中は広く、綺麗で、落ちついた雰囲気だ。市内観光専門のデスクを案内されると、そこには男三人が座っていた。向かって左がごく一般的なインド人、真ん中がネパール系、右が小太りで額の後退が進行しているおやじだった。中心はネパーリーで彼が地図を色々持ち出してきて、舞踊やカルカッタについて事細かに説明してくれた。一般的なインド人がそれをフォローし、小太りのおやじがちゃちゃを入れた。バスの車掌でも、店員でもインドでは何故か関係のない人が何人か側によくいる。仕事はしていないが、いるのだ。これは雇用の機会を増やすためではないかと思う。そうでなければ、小太り親父も何故インフォーメーションにいるのか分からない。冗談を言う仕事を受け持っているとは思えない。</p> <p>「君の腕時計いくらなら売る?」</p> <p>彼は、この時だけ真剣だった。そして、これが一番笑えた。</p> <p> </p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918215947j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918215947.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918215947j:plain" /></p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918220035j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918220035.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918220035j:plain" /></p> <p> カルカッタはデリーとは雰囲気が違うのではないか、と感じ始めていた。<a href="http://www.koyoblog.com/entry/darkness_two">路上で寝る沢山の人々をいきなり見た</a>ということ、<a href="http://www.koyoblog.com/entry/syringe">注射を回し打ちしている場を見た</a>ということ、この辺が私の印象に影響を与えていた。そしてまた、拡声器で音楽を流しながら何やら訴えているトラックを見た。赤い旗を掲げている。共産主義者たちである。リクシャーにまで赤い旗を掲げ、何台も連なって走っていた。次の日には、赤い旗ばかりの通りも見ることになった。デリーでは見なかった光景だ。インド全体で見れば、宗教も様々なものが混じっているし、言葉も民族も多様だ。カシミールの方ではゲリラがいるし、あちこちで衝突がある。日本は、近頃、価値観が多様化したとか言っているが、インドに比べればすこぶる単一的でまとまっている。例えば、東京と熊本でも、中に入ってみれば随分考え方が違う所も分かってくるが、町を歩いただけではすぐには雰囲気の違いを感じない。しかし、インドでは同じ大都市のカルカッタとデリーでも雰囲気が少し違う。メインバザールにいた“銀行で会っただろ!”の<a href="http://www.koyoblog.com/entry/purveyor">宣伝男</a>、カルカッタには彼みたいなタイプは何かマッチしない。イメージとして。じめじめした気候も私の印象に影響を与えているのかもしれない。それともこの気候が町全体に影響を与えているのか。わずかな時間でのイメージとして、そんな違いを感じた。</p> koyoblog 鉄格子の部屋に泊まる hatenablog://entry/8599973812298995414 2017-09-24T19:00:00+09:00 2017-09-24T19:00:41+09:00 Timestarのこの安い部屋に居座るならば、トイレは耐え得るものであるかどうか見極めねばならない。今は悪臭を放っている。しかし、まずは百二十の部屋が空くまでだ。それなら問題はない。 「とりあえずここでもいいよ」 そう言うと使用人は下に戻って行った。Timestarを探すのに汗をぐっしょりかき疲れていたので、服を脱ぎ捨てベッドに横になった。 すぐにうとうとしだした。だが、悪臭はだんだん鼻につき、それとともに気分が悪くなり、眠気もさめてきた。むくっと起きだし、一発流した。それから、うとうとしたと思うとまたもや気分が悪くなり、もう一発流した。三回も流せば研ぎ汁はほぼ消えた。残された問題は残り香だけ… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918001459j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918001459.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918001459j:plain" /></p> <p> Timestarのこの安い部屋に居座るならば、トイレは耐え得るものであるかどうか見極めねばならない。今は悪臭を放っている。しかし、まずは百二十の部屋が空くまでだ。それなら問題はない。</p> <p>「とりあえずここでもいいよ」</p> <p>そう言うと使用人は下に戻って行った。Timestarを探すのに汗をぐっしょりかき疲れていたので、服を脱ぎ捨てベッドに横になった。</p> <p> すぐにうとうとしだした。だが、悪臭はだんだん鼻につき、それとともに気分が悪くなり、眠気もさめてきた。むくっと起きだし、一発流した。それから、うとうとしたと思うとまたもや気分が悪くなり、もう一発流した。三回も流せば研ぎ汁はほぼ消えた。残された問題は残り香だけだ。それを消すために蚊取線香に火をつけた。懐かしい日本の香りである。蚊取線香を消臭目的で使うことになるとは思わなかったが、これは結構効果があった。おかげですっかり眠りについてしまった。</p> <p> “ドンドンドンドン”</p> <p>使用人が思いっきりドアを叩く音で目が覚めた。一向に下に降りて来ないから様子を見に来たのだ。時間は一時間経っていた。まだ台帳に名前を書いていなかったし、金も払っていなかった。彼らが気にかけるのも当然だ。すぐに支度をして下に降りた。</p> <p>「気に入ったよ。あの部屋でいい」</p> <p>悪臭はほぼ消えていた。研ぎ汁も残っていないし、一時間もぐっすり眠れたのだから十分だ。</p> <p>「百二十の部屋が空いたら教えるからな」</p> <p>主人は好意で言ってくれているのだ。確かに窓に鉄格子の入ったあの独房のような部屋に、好んで入ろうとする人間はあまりいないだろう。だが、私にはあれで十分だった。静かで、ドアに鍵が付き、窓から侵入の恐れがない位に安全で、安く、病気にならないくらいに汚くなければ、それでいいのだ。</p> <p>「あの部屋に泊まるから」</p> <p>どう思ったのだろうか。主人は黙って私を見た。</p> <p>(この時、もう大丈夫だと思っていたのだが、残り香はなかなか消えず、その夜、蚊取線香をつけっぱなしで寝ることになった。そのおかげで、悪臭ではなく蚊取線香のせいで、翌朝は気分が悪くなってしまった。)</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170918001520j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170918/20170918001520.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170918001520j:plain" /></p> <p> サダル・ストリートをぶらぶら歩き、ミネタルウォーターの安い店を見つけてから一度部屋に戻った。階段を上り、ドアまで来ると、そこには使用人の一人が寝ていた。ドアの前に薄いマットを敷き、上半身裸で横になっている。手には団扇を持ったまま、いびきをかいていた。昨夜泊まったそれなりの値段の所でも、廊下では使用人が寝ていた。これは、実際彼らに他に寝るところがないというのと、盗難防止の意味があるのではないだろうか。ただ寝るためなら、わざわざドアの前でなくとも他にも場所はある。盗難防止に違いない。しかしながら、ここで昼寝していた彼、ドアをあけるために足を動かしたのだが、起きる気配は、なかった。</p> koyoblog 悪臭 hatenablog://entry/8599973812298645634 2017-09-21T19:00:00+09:00 2017-09-21T19:00:51+09:00 Timestarは細い道からさらに奥に入った所にあった。ドアなどない。でかい入り口の目の前がフロントだった。そこにはターバンを巻いたでかい男が座っていた。落ちつきはらって、わずかにこくりと頷いた。貫祿がある。 「部屋を探している」 「どの位の部屋がいいんだ」 「百だ」 「あいにくだが、百二十の部屋は今塞がっている。だが、今日中には一つ空くだろう。もう一度来てくれ」 残念ながら時間をかけてここに来た甲斐はなかった。別のを探そう。 私が背中を向けかけると、男ははっと思い立ち、身体を前にやや乗り出した。 「もしあんたが嫌でなければ、四十の部屋がある。そこにとりあえず荷物を置かないか。百二十の部屋が空… <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170916231042j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170916/20170916231042.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170916231042j:plain" /></p> <p> Timestarは細い道からさらに奥に入った所にあった。ドアなどない。でかい入り口の目の前がフロントだった。そこにはターバンを巻いたでかい男が座っていた。落ちつきはらって、わずかにこくりと頷いた。貫祿がある。</p> <p>「部屋を探している」</p> <p>「どの位の部屋がいいんだ」</p> <p>「百だ」</p> <p>「あいにくだが、百二十の部屋は今塞がっている。だが、今日中には一つ空くだろう。もう一度来てくれ」</p> <p>残念ながら時間をかけてここに来た甲斐はなかった。別のを探そう。</p> <p> 私が背中を向けかけると、男ははっと思い立ち、身体を前にやや乗り出した。</p> <p>「もしあんたが嫌でなければ、四十の部屋がある。そこにとりあえず荷物を置かないか。百二十の部屋が空けば、それから移ればいい」</p> <p>四十ルピー。破格の安さだ。断る理由などなかった。</p> <p>「見せてくれ」</p> <p> 使用人と二階に上った。木の古ぼけた階段に、ぎしぎしと音をたてる二階の床。そこには、使用人らしきのが三、四人たむろしていた。そのうち一人だけ笑顔で「ハロー」と言った。そいつらがたむろしているのは、部屋が並んでいる側とは反対の隅だった。そして、四十ルピーの部屋はその隅のさらに奥にあった。中をのぞける程穴の空いたドアには、手のひら位のでかい錠前がぶら下がっていた。それを開けた。</p> <p>‘ギギギギー’</p> <p>三流のホラー映画に出てきそうな、わざとらしい程の軋み音が響いた。何ら人間味のない、コンクリート剥き出しの壁がそこにあった。所々にひびが入っている。塗り直したのだろう。白っぽいコンクリートと黒っぽいコンクリートが汚く折り重なっている。</p> <p> そのコンクリートには窓が二つ開いていて、鉄格子がはめ込まれていた。鉄格子の内側に観音開きのガラス窓がとりつけてある。窓の一つは閉まって、一つは開いている。閉まっているほうは綺麗に噛み合わさっていないが、無理やりかけた鍵によってその隙間は少しばかり狭められていた。開いた方からは、目の前にある隣の家がよく見える。そして向こうからもこちらの様子がよく見える。屋根同士はほとんどくっついているから、すぐにこちらに渡ってこられる。しかし、窓枠には鉄格子がかかっているので、中にまでは入ってこられない。</p> <p> 四歩も歩けば、突き当たりの壁に取り付けられている水道に手が届く。水は出た。このとき、異様な匂いが鼻をついた。まさにつくような匂いなのだ。今でも思い出せるが、腐ったアルコールがげろに混じったような匂いだ。</p> <p>‘何だこれは’</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170916231143j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170916/20170916231143.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170916231143j:plain" width="303" /></p> <p>匂いの元を辿った。それはどうやら左のシャワールームからきていた。シャワーには、剥き出しの水道管に、でかいじょうろの先のようなものがついている。勢いよく出せばその先が取れてしましいそうだが、とりあえず水は出た。そして水に匂いはなかった。悪臭の原因はさらに奥の便器にあった。シャワーとの間にドアなどない。便器は、便座が無く、水槽も天井の方に離れてついている。殺風景で、寂しくぽつんとそこにあった。その寂しい便器から厳しい悪臭が放たれていた。覗き込むと、そこには白い研ぎ汁のような、げろだか汚物だかがあった。これは極めて危険だ。臭いとか汚いとかということではなく、危険なものであった。人間の身体にはマッチしない細菌が、高濃度でそこに存在している。私はすぐさま垂れ下がっている鎖を引っ張った。‘じゃー’と勢いよく水がでてきた。勢いが良すぎて、便器の中でなく外にも水ははじけ出た。その分と、元々水槽に溜まっている水量の少なさから、危険な研ぎ汁は一度には流れなかった。</p> koyoblog 注射器 hatenablog://entry/8599973812298645335 2017-09-19T19:00:00+09:00 2017-09-19T19:00:03+09:00 なんとも寝苦しい夜だった。窓を開けたが、六階の部屋でもわずかな風すら吹いていない。シャワーを浴びてすっきりさせたが、それもカルカッタの湿気には無駄な抵抗だ。頭を拭いている間に、体は汗が混じってますます濡れた。 部屋は、値段が高いだけあって広めでシャワールームもましだった。トイレもそれなりだったし、電気も明るかった。しかし、枕は、カルカッタの湿気に汗を流した人々の数だけ、脂ぽかった。その脂で頭周りの湿気も強調された。その不快さがつのり眠れなかった。枕はとっぱらって、代わりに、飛行機やバスで眠れるように持ってきた空気枕を使って寝た。 翌日は風が少し入り込み、ましな気候になっていた。六階だったので、… <p> なんとも寝苦しい夜だった。窓を開けたが、六階の部屋でもわずかな風すら吹いていない。シャワーを浴びてすっきりさせたが、それもカルカッタの湿気には無駄な抵抗だ。頭を拭いている間に、体は汗が混じってますます濡れた。</p> <p> 部屋は、値段が高いだけあって広めでシャワールームもましだった。トイレもそれなりだったし、電気も明るかった。しかし、枕は、カルカッタの湿気に汗を流した人々の数だけ、脂ぽかった。その脂で頭周りの湿気も強調された。その不快さがつのり眠れなかった。枕はとっぱらって、代わりに、飛行機やバスで眠れるように持ってきた空気枕を使って寝た。</p> <p><img class="hatena-fotolife" title="f:id:koyoblog:20170916230924j:plain" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/koyoblog/20170916/20170916230924.jpg" alt="f:id:koyoblog:20170916230924j:plain" width="276" /></p> <p> 翌日は風が少し入り込み、ましな気候になっていた。六階だったので、夜明けと伴に外の騒がしさで叩き起こされることもなかった。ただ、空気枕は、頭全体の重みに耐えきれずつぶれていた。重宝する空気枕だったのだが脂枕と引換えにその役目を終えた。</p> <p> その日にすることは、まずは安宿探しだ。もっと安いところに移らねばならない。地球の歩き方を見ればうってつけのところがあった。“静か、安全、安い”の三拍子そろったTimestar Hotelとある(当時)。“清潔”が抜けてはいたが、十分すぎる程の褒め言葉だ。ここを探さない手はない。いつもは目星をつけていたとしても特にこだわらず、通りがかりで良いところを見つければそこに決めていた。しかし、昨夜は少し怖い思いをしたこともあり、今回は“安全”とあるその宿を捜し出すことにした。</p> <p> 静かなTimestarはサダル・ストリートからやや入った所にある、らしい。しかし、それらしき小道を何度か入りぐるぐると回ったが、なかなか見つからなかった。そのうち、妙に静かで、どんよりとしたけだるい雰囲気の漂う小道に入った。そこをどんよりとけだるくさせているのは、道の隅に一人であるいは数人で座り込んでいる男たちだった。彼らはやせ細り、体からも目からも力を感じない。虚脱した男たちだった。誰も歩いている私のことなど見ない。まったく外で起きている出来事に興味はない。内なる世界に浮遊していた。彼らが手にしているものは一本の注射器。今まさに刺している最中の奴もいる。力なくゆっくりと刺し、押し込んでいる。回し打ちしている注射器の中は、赤い。血が混じり込んでいた。</p> <p> 突然私は、“この状況を写真に撮りたい”という衝動に襲われた。だが、もちろん危ない。らりっている奴らだ。弱っているとはいえ、何をするかは分からない。すぐにはカメラを構えず、様子を伺った。“奴らはこちらには注意を向けていない。今のうちだ。”ベルトに引っかけたバッグからカメラを取り出そうと手を伸ばしたとき、一人がけだるい目をこちらに向けた。“じとっ”と、しかし真っ直ぐ。私はそのまま歩き去った。</p> koyoblog