私は、何故、バックパッカーとなるのか。このあたりのところはしばらく分からなかった。異国の地を歩きながら、よく考えたものだった。暑くてへたばりながらも目的地を目指し、寒くて眠れなくても安い部屋で耐え、時には身の危険を感じ、時には病気になり、時にはぼられても、それでも旅を続ける。なぜそんなことをするのかよく分からない。ただ、どうしてもそうしたいのである。快適なホテルに泊まり、何不自由なく観光をしてしまうと、まったくつまらなくて感動なんてものはこれっぽっちも感じず、時にはあまりの刺激のなさにイライラとさえしてしまう。わざわざ資金を切り詰めて、わざわざ大変な方を選んでしまうのだ。日本に帰りたくなりながらも、実際は次の目的地を目指している。日本に戻ってきてほっとしても、すぐにまた出発したくなってしまう。そうせずにはいられないのだ。どうしてこんなことをしているのだろうか。不思議に思いながら、何故か分からないまま、バックパッカーとしての旅を続けていた。
旅を続けていた、とは旅が日常生活になっているような書き方だが、あくまでも日本での生活が主で旅はそこからの離脱にすぎない。何年も、何十ヵ国も歩いている人からすれば、ひよっこみたいなものだ。それでもひよっこなりにどうしても突き上げてくる欲求があった。その理由の輪郭がおぼろげながら分かってきたのは、ごく最近のことだ。私がちょうど旅をはじめた時は、長い間目標にしていたことに一応のピリオドが打たれ、自分のやりたいことが定まっていない頃だった。何かをやっていないと気が済まない質なのだが、その何かがなかった。その空白を埋め合わせるものとして、旅が出てきたのだろう。思えば子供の頃は、地球儀を眺めるのが好きで、学校の作文なんかでは外国のことを想像で書いたりしていた。そういう元々の興味もあって、海外に出ることが心に浮かんだに違いない。この海外に行くということには、違う世界や異なるものの見方を発見し、何か新しいやりたいことを見つけられるかもしれない、という淡い期待があったことも確かだ。でも、どこに行ったって新しいことを見つけられるとは限らないし、逆に場所を変えずともやりたいことが分かるときもある。ただこれだけのことでは、きつい思いをして旅をしない。