子供の頃一番好きだった建造物は、タージマハールだった。歴史の教科書で初めて写真を見たとき“なんて美しいんだ”と感動した。美しいなんてことはあまり感じないほうなのだが、タージマハールは心底美しいと思った。そして、一度は本物を見てみたい、そう思った。そのタージマハールに、ついに到着した。あの写真で見たものがもう目と鼻の先にある。もう一度美しいと感じることができるだろうか、という期待と不安が入り交じった。
そんな気持ちを抱えながら、車から降りようとしたとき、どこからか若いインド人が近寄ってきた。
「私はあなたを待っていました」
「なんで?」
「オフィスに頼まれたからです。アグラを案内するようにと」
本当か?ITDCはニューデリーからガイドをつけるとか最初言っていたが、それを断ったので現地のガイドをつけたのだろうか。ちょっと間をおいた私を見て、そいつはすぐにこう言った。
「あなたはなかなか来なかった。大分待たされました」
出発時間を知っているのか。どうやら本当らしい。シヴァもうなずいた。
「OK.分かった」
「アグラのどこを見たい?」
「今、タージマハールを見て、そしてもう一度夕暮れのタージマハールを見られればそれでいい」
「それなら三十分タージマハールを見て、その後市内を案内する。そしてまた戻ってこよう」
ガイドは私を門まで連れていき、その歴史を語った。私には、成り立ちなどどうでもよかった。ただ、そこにあるタージマハールをこの目で見たかった。何も聞かず頷いていた。「聞いているのか。この門の石はどこから持ってきたと私は言ったか?」
なかなか厳しいガイドだ。これでは美しいと感じるどころか気が抜けないかもしれない。
一人にしてもらい門をくぐった。そこには写真で見たタージマハールがあった。確かにきれいだ。しかし、期待したぐらいに心から感じるまでにはいかなかった。これは、恐らく期待が大きすぎたのと、そこにたどり着くまでの状況のせいだろう。どれだけ心を打たれるのかは、見たものがどれだけ凄いものなのか、というよりはそこに行くまでの過程の問題だ。これは旅を続けて感じたことだ。金を払って簡単に着いてしまうよりは、いろんな人に道順や交通手段を聞きながら迷った方がいい。現地の人が行くのと同じ方法で、なんとかたどりついたぞ、という実感のあるほうが心を打たれる。そして、たどり着いたものについてあまり知らないで、行ってみたら凄かった、という時のほうが感動しやすいかもしれない。マレーシアでスルタン・サラフディン・アブドゥル・アジズ・シャー・モスクという長い名前のモスクに行ったときがそうだった。