目的地へ行こう

まだたどり着いていない人のブログ。

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注射器

 なんとも寝苦しい夜だった。窓を開けたが、六階の部屋でもわずかな風すら吹いていない。シャワーを浴びてすっきりさせたが、それもカルカッタの湿気には無駄な抵抗だ。頭を拭いている間に、体は汗が混じってますます濡れた。

 部屋は、値段が高いだけあって広めでシャワールームもましだった。トイレもそれなりだったし、電気も明るかった。しかし、枕は、カルカッタの湿気に汗を流した人々の数だけ、脂ぽかった。その脂で頭周りの湿気も強調された。その不快さがつのり眠れなかった。枕はとっぱらって、代わりに、飛行機やバスで眠れるように持ってきた空気枕を使って寝た。

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 翌日は風が少し入り込み、ましな気候になっていた。六階だったので、夜明けと伴に外の騒がしさで叩き起こされることもなかった。ただ、空気枕は、頭全体の重みに耐えきれずつぶれていた。重宝する空気枕だったのだが脂枕と引換えにその役目を終えた。

 その日にすることは、まずは安宿探しだ。もっと安いところに移らねばならない。地球の歩き方を見ればうってつけのところがあった。“静か、安全、安い”の三拍子そろったTimestar Hotelとある(当時)。“清潔”が抜けてはいたが、十分すぎる程の褒め言葉だ。ここを探さない手はない。いつもは目星をつけていたとしても特にこだわらず、通りがかりで良いところを見つければそこに決めていた。しかし、昨夜は少し怖い思いをしたこともあり、今回は“安全”とあるその宿を捜し出すことにした。

 静かなTimestarはサダル・ストリートからやや入った所にある、らしい。しかし、それらしき小道を何度か入りぐるぐると回ったが、なかなか見つからなかった。そのうち、妙に静かで、どんよりとしたけだるい雰囲気の漂う小道に入った。そこをどんよりとけだるくさせているのは、道の隅に一人であるいは数人で座り込んでいる男たちだった。彼らはやせ細り、体からも目からも力を感じない。虚脱した男たちだった。誰も歩いている私のことなど見ない。まったく外で起きている出来事に興味はない。内なる世界に浮遊していた。彼らが手にしているものは一本の注射器。今まさに刺している最中の奴もいる。力なくゆっくりと刺し、押し込んでいる。回し打ちしている注射器の中は、赤い。血が混じり込んでいた。

 突然私は、“この状況を写真に撮りたい”という衝動に襲われた。だが、もちろん危ない。らりっている奴らだ。弱っているとはいえ、何をするかは分からない。すぐにはカメラを構えず、様子を伺った。“奴らはこちらには注意を向けていない。今のうちだ。”ベルトに引っかけたバッグからカメラを取り出そうと手を伸ばしたとき、一人がけだるい目をこちらに向けた。“じとっ”と、しかし真っ直ぐ。私はそのまま歩き去った。