荷物を置き、チケットを買いにすぐに駅へ行くことにした。短い期間で、ヴァラナスィー、カルカッタに行くためには、今日中にタージマハールを見ておきたかった。リクシャーを拾い、メインバザールの人込みをするすると走り抜けるとすぐに駅が見えてきた。しかし、リクシャーは駅から道路を隔てたところでするすると停まった。目の前にはITDC(インド観光開発公団)がある。運転手は振り返り、にっと笑った。ここで予約をしろというのだ。あてにならないインドの旅行代理店の中で、それなりに信用できるらしい所だ。客を連れてきたリクシャーの運転手にもおすそわけが入るのだろう。私は損も得もしないだろうから、「いいよ」とにっこり笑って降りた。
しかし、後から振り返ってみるとこれがすべての始まりだった。強烈なインドの洗礼を受けることになるとは、この時考えてもみなかった。
オフィスに入ると笑顔で迎えられた。
「ハロー!」
青年が、張りのある声で言った。なかなかのハンサムだ。でも、彼の鼻毛は飛び出している。横には眠そうなおっさん三人が、狭いデスクに並んで座っていた。青年が、‘さあ座ってくれ’と私を招き入れ、さっそく切り出した。
「どこへ行きたい」
「まずはアグラに日帰りで。それから、ヴァラナシィー、カルカッタへ。すべて、列車で」
ここですべての手配をしてしまおうと思った。
「分かった。まずはアグラだ」
彼は駅に電話をかけた。インド語でまくし立てていたが、どうやら雲行きは怪しいらしい。首を横に振って、自分で話してみろと受話器を渡してきた。今日のアグラ行きは満杯だそうだ。早くも私の予定は崩れてしまった。今日行けないとなると、アグラを諦めるか、カルカッタを一日減らすかだ。どちらを選ぶか考えていると、青年はすかさず商談を持ちかけてきた。
「うちの車を使わないか。今日中に往復できるぞ。片道四時間で行く(特急は三時間)。百五十ドルでどうだ。最高のガイドもつける」
アグラを諦める気にはどうしてもなれない。でも、カルカッタにもゆっくり滞在したかった。しかし、それには車を使うしかないだろう。もう列車は使えないのだ。ここはけちっても仕方がない。車で行こう。
「高すぎる。ガイドはいらない」
「分かった。ガイドでなく、うちの人間が一人つく。それで百二十ドルだ」
ここに並ぶおっさんの誰かがついて来る?彼らを見やった。無表情な人、ただ微笑みを浮かべる人、眠そうな人。
「誰もつかなくていい。もっと安くしてくれ」
「百でどうだ」
三分の一は減らしたし、この程度だろう。そう思い、手をうった(何故、百にしてしまったのか。これでもとんでもなく高い)。青年は商談を一つまとめ満足げだった。三人の並んだおっさんはにこにこ笑って嬉しそうだった。ヴァラナスィー、カルカッタの列車予約も頼み、金は先に払った。(実際にヴァラナスィーへの切符が取れたのを確認してから車を雇うべきだった。しかし、払ってしまってから後悔してもしかたがない。こうなったらすんなり切符がとれていることを願うしかない。きっとうまくいくだろう。そう期待した)。
車はすぐに来た。よくみかける黒地に黄色の屋根をつけたタクシーではなく、白塗りの車だ。モデルは七十年代かへたすると六十年代のものではないかというぐらいの古さだが、どうやら白塗りは高級車を意味するらしい。‘なんだ、なんだ’と振り返る人がいた。シートはかたくエアコンなどついていないが、それでも、その辺を走っている車の中ではましなものに見える。
乗り込んだ時。
一人の男が車に近づいてきた。後部座席に座る私の目の前で立ち止まった。男はおもむろに服の中に手を突っ込んだ。そして、取り出した。
ピストルを。
‘えっ’
ガラス越しにつきつける。身体が強張った。永い時が流れる。
だが、気づいた。銃口には穴が開いていない。おもちゃだ。金持ちへの嫌がらせだ。二回引き金が引かれ、反動で銃口が二回上がった。
‘バンバン’
ピストルをつきつけられる場面なんて想像さえしていなかった。だから逆に、その非現実感からか頭の中に冷めた部分を残していた。
悪夢のような一日を祝福する、見送りの挨拶だった。