シルバーパレスに別れを告げて、メインバザールに出ると、また無性にフルーツジュースが飲みたくなった。小気味よくミキサーをかけるおじさんは、私が近づいていくと、‘まあ中に入れよ’と招き入れた。中は三人入れば一杯になってしまう狭さだ。すでにいた二人に詰めてもらって腰掛けた。今度はパイナップルジュースを頼んだ。小さな空間でともにフルーツジュースをすする三人のうち一人は、イギリスから来たインド系の人だった。
「休暇で来たんです」
彼はインド人がつくった国を見に来た。
「イギリスでビジネスをしています」
身なりは、この界隈では目立って整っていた。話振りはすごく知的な感じがする。
「この辺りは騒がしいでしょう」
「ええ、いろんな意味で」
彼は微笑を浮かべて頷いた。本をぱらぱらと読んでから、
「いい旅を」
と言い残して彼は出ていった。
私は次にオレンジジュースを頼んだ。そこに、昨日おばさんとのシャツの引っ張り合いを見ていた(「暑いメインバザール」)、白人のおじさんが入ってきた。私と目が合うと、彼は昨日と同じように静かに笑った。ゆっくり腰をかけ、「ノーアイス」でジュースを注文した。リュックはペチャンコでほとんど物は入っていない。着ている物は薄汚れている。旅の期間は結構長そうだった。彼は静かにジュースを飲み、静かに立ち上がり、また静かに笑って出ていった。
私は何だかこの店がとても気に入り、おじさんに写真を撮らせてくれと頼んだ。彼は即座にOKしてくれたが、客は途切れることなく、なかなかカメラに向くことができない。そこでもう一杯頼んだ。今度は二十ルピーと倍の値段のざくろジュースだ。それをゆっくり飲みながら、シャッターチャンスを待った。そんな時、白人の青年が声をかけてきた。「君は日本人?」
「そう日本人。君はどこから来た?」
「俺はドイツから」
私はドイツ語の記憶を引っ張りだした。
「ぐーてんたーく」
彼は、ちょっと考えてから「こんにちは」と言ったことを理解して、にやっと笑った。それからは彼がずっとしゃべりまくった。要約すれば、彼は庭師をやっていて、金がたまれば世界中を旅行していて、インドは二回目で、前回は半年かけて南部を回っていて、ドイツでは仲間と一緒に酒を飲んで騒いでいるそうだ。
「今度は日本に行くつもりなんだ。そこで聞きたいんだが、日本は何でも値段が高いらしいが本当か」
「本当だよ。このフルーツジュースも百ルピーはすると思う」
“ヒュー”とんでもない、と彼は首を振った。日本は貧乏旅行者が行きにくい場所だ。
「高くてホテルに宿泊なんてできないから、テントで暮らそうと思うんだけど、出来るかな。安全は大丈夫だと聞いているけれど、近くに住んでいる人が嫌がったりしないかな」
「町中だったらきっと駄目だ。だけど山が沢山あるからその中なら大丈夫だよ」
「そうか、そうしよう。それで季節はいつ頃がいい?」
「冬はテントには寒いな」
「今くらいだったらどうだ」
「6月は日本では雨の季節だ。長くいるんだったらその後がいい」
「分かった。それから、沖縄は海が綺麗らしいけれど」
「綺麗だよ、日本人は皆行きたがる」
「よし、沖縄も行ってみたいな」
山を探して、そこにテントを張ればいいという返答は、とてもいい加減なものだ、と思う。でも彼ならできそうだった。新しい町に来て“山はどっちにありますか?”とねぐらを探す彼の姿は、何故かとても、ぴったり、とはまった。彼は日本への旅のイメージが出来てきたようだった。うんうん、と満足げに頷いた。
飲み過ぎでたぽたぽいっている腹を抱えて、フルーツジュース屋を出た。もしまたニューデリーに来るようなことがあったら、必ずまた立ち寄ろうと思う。旅行者同士の接点、フルーツジュース屋に。
リクシャーを探して私はメインバザールを歩いた。また宣伝男がいた。しかし、さっきまでとはうってかわって、暗く沈んだ顔をしている(「宣伝男」)。そして、私の反応を伺い、こちらを見たり、目を逸らしたり、ちらちらやっている。昨日、私が腹を立てていると思ったらしいリクシャーのおっさんが、心配そうに顔を覗き込んできた時のあの様子と似ている。私なら、なに食わぬ顔でいるところだが(いやそれ以前に他人の帽子をとってしまおうとはしないが)、宣伝男にとってはとても気になることであるようだ。ひとを怒らせるようなことをしておいて、相手が怒ってしまうと気になるのだ。彼がとても落ち込んでいるので、安心させてあげたい気になった。実際、“インドではこんなもんだ”という達観ではなく、軽い諦めのような感覚が身についてきていて、この位のことでは、気にならなくなっていた。声を荒らげたのも早く切り上げたくなったからだった。そこで、彼に向かってにこっと笑いかけた。宣伝男は急に晴れやかな笑顔を取り戻して片手をあげた。