ニューデリー駅に着き陸橋を登った。踊り場には目の見えない笛吹きがいた。子供の頃、駅の地下道で、戦争で足を失った人がハーモニカを吹いていたのを思い出した。笛吹きはまだ若く、痩せてはいたが弱ってはいなかった。私は写真を撮りたくなった。せめてもと、足元に金を置いてからシャッターを切った。暗くなっていたのでフラッシュがたかれてしまった。彼の白目はそれを感じた。嫌そうに顔を背けた。
階段を登り切ると、また一人老人が座っていた。長い杖を持ち、片膝を立てていた。老人の物乞いなど、どこにでもいる。珍しくはない。しかし、彼は違っていた。白人なのだ。白人のリクシャー運転手にも驚いたが、まさか白人の、物乞いがいるとは。彼に何が起きたのだろう。元はバックパッカーとしてインドを旅行していたのだろうか。ヒッピーのなれの果てか。インドにはまって抜け出せなくなったのか。また写真を撮りたくなった。小銭を探したが、ポケットにあったのは十ルピー紙幣だけだった。でも、それをあげずにはいられなかった。彼の前にそっと置くと、彼はやせ細った手でゆっくり拾い上げ、長く伸びた眉毛に隠れそうなしょぼくれた目に持っていった。そしてしょぼくれた目を精一杯見張った。引っ繰り返したり、高く掲げたりしながら、まじまじと何度も十ルピーであることを確認した。インドに来た頃には彼にとって端金だったろう。それを今は大事に両手で包み込んだ。
バンコクのカオサン・ロードに頭のいかれた黒人がいた。わけの分からぬ奇声を発して歩き回っていた。らりっているとしか見えなかった。数日後彼は路上で死んだように横たわっていた。実際、死んでいたのかもしれない。その黒人とこの老人はもちろん一緒ではないし、どういう考えを持ち、どういう人生を歩んできたのかは分からない。だが、うずくまった彼の姿はその黒人と同じで、悲惨で哀れだった。少なくとも私の目にはそう映った。彼は彼のやりたいようにやっているから幸せなのだ、こうさせてしまうのがインドの魅力なのだ、とは簡単には思えなかった。破れた股間から中が見え、痩せて縮こまっている彼は、このまま死んでいくだろう老人の姿は、恐怖さえ感じさせた。この恐怖は、先進国に住む人間のエゴからばかり来るのではない。物的な豊かさの問題ではない。又、心の豊かさがどうのとかいう話でもない。彼は永久にこの世に別れを告げたのだ。大きなうねりに飲み込まれて別の世界に行ってしまったのだ。このうねりに飲み込まれたら外には出られない。そこには混沌しかない。秩序立った、体系的なものの考え方、意志、因果関係などはすべてない。何をするにも理由はなく、目的をなし遂げることに価値などない。混沌の世界。インドにはまる人がいるとよく言われる。そういう人は、足を踏み入れたことのない、混沌の世界に触れてみたいという欲求が強いのだ。知らない世界への好奇心。だが、触れるだけで済めばいい。うねりに飲み込まれたら、相手が混沌だけに秩序への復活は限りなく不可能に近い。恐ろしい。強力な混沌に、自分が、引き込まれてしまったら。そんな恐怖を感じた。向こうの世界に入ってはいけない。外から見るだけでとどめねばならない。
混沌への入口インド。そこには暗黒の大きな口があちこちに開いている。混沌と秩序の間の壁が薄いのだ。人間が少しずつ築いた秩序の体系は、インドでは所々が抜け落ち、もろく、はかない。
メインバザールに戻り、食事するところを探していると、また声がかかった。
「覚えているはずだよ。銀行の前で会っただろ」