運転手は小柄で痩せた男だった。「名前は?」と聞くと、黙って首を振った。(当時)歳は私と同じ二十七歳。体つきは子供のようだが、口髭を生やした顔は歳相応に見える。名無しの彼は、少しふっくらさせればシヴァ神に見えないこともない。だからシヴァと呼ぶことにする。シヴァは話し下手というよりは、話すのが面倒という感じで、ほとんどしゃべらない。そのくせ時々突然歌いだしたと思ったら、一、二小節で止めてしまう。変な奴だった。
シヴァは寡黙だったが、車の方は直ぐに音をあげた。オーバーヒートだ。三十分もしないうちに車を脇に停め、ラジエーターに水を流し込んだ。一応ここでは高級車なのだが、あまりできはよくない。再度スタートしても温度は少しずつ上がっていく。原因は単に水が足りなかっただけではない。シヴァは車を気づかいスピードを下げた。これから先、アグラまで果して何時間で着くのだろうか。
一時間半位走った所で食堂に停まり休憩した。シヴァは高級車に水を補給し、長々と便所に入った。その間コーラを飲んだのだが、瓶にはストローが差し込まれた。瓶の口は汚れているから、外国人が嫌がることを彼らはよく知っている。何度も使っているストローが果してどれだけ綺麗かは定かでないが、彼らなりの心尽くしなのだろう。
外の売店で買った不味い煙草で時間を潰していると、便所からいつしか戻ってきたシヴァは黙って座り、コーラを注文した。彼は便所の後の濡れた手で、瓶の口に指を突っ込み、くるくるまわして埃をとった。これも指でふくのとそのまま飲むのとは、どっちが綺麗かは定かでない。
シヴァに煙草を何度か勧めたが、肺が痛いという素振りをして受け取らなかった。健康に気を使うような奴には見えない。痩せているのは、病気のせいか。自分の名前も告げないシヴァの生活はどんなものなのだろうか。
運転手を雇った場合は、食事等は客持ちというのは暗黙の約束事である。しかし、彼は二人分のジュース代をさっと出した。おまけに外の売店で噛み煙草まで買ってくれた。これはインド人がよく噛むという歯が赤くなるやつだろうか。機会があれば一度やってみたいと思っていたのだ。無愛想だが、こいつは結構いい奴なのかもしれない。
しかし、歯は赤くはならなかった。そして、とても不味かった。どんどん唾を吐き出したかった。だが、シヴァの噛み方を見ていると、いつまでも唾を吐かない。米国で噛み煙草をやった時は始終吐き続けたが、シヴァはまったく吐かないのだ。これがこの煙草の正しい噛み方なのであろうか。きっとシヴァは唾を飲み込んでいる。シヴァが唾を吐かないのなら、私も吐くわけにはいかない。ほんの少し飲み込んではみたが、気持ち悪い。しかし、彼にとってはなけなしの金で買ってくれたのだから、せめて一袋ぐらいは試してみないと。にがいだけで特に味のない煙草の粒々を含んでいると、唾を吐かないかわりに、ゲロを吐きそうになった。出来るだけ我慢してためにため込み、もう限界というところでどばっと窓から吐き出した。
なんて律儀なんだ。
インドでそんな感覚は必要ないのに。シヴァは、また大声で一小節歌って鼻をほじくった。