もはやシヴァは私に土産を買わせることを諦めた。
「車を直すから、ちょっと停まる」
朝から悩まされているオーバーヒートだ。砂ぼこり舞う広場に入ると、何台かの車と何人かの男、それに掘っ建て小屋が見えた。自動車整備場だろう。様子見に外に出ると、シヴァは、
「いいから中に入っていて、ここはほこりが舞っているから」
と、妙に高級車運転手を装う。それでも外に出ると、整備場の少年が椅子と水を持ってきてくれた。こんな所に気を使うならタージマハールに連れてってくれ。そしてましな車に直してのろのろ運転はやめてくれ。
だが、車の修理は無理のようだった。金色のネックレスとブレスレットをしたここの主人らしい男が、両肩を上げた。帰りものろのろ運転だ。とんだ車にあたったもんだ。
「タージマハールに行ってくれ」
車が治らないとあっては、シヴァは行こうとはしないだろうと分かっていたが、言わずにはいられなかった。日が暮れてきた今、あと三十分残ってタージマハールを見られれば、今日は来てよかった、と思えるかもしれない。しかし、シヴァは黙ったままだ。車はニューデリーに向かっている。なんて一日だ。ただ引きずり回されただけだった。タージマハールにはわずか三十分だ。虚脱感が私を襲った。シヴァはそれを見て少しは悪かったと思ったようだ。彼独自の考え方に基づいて。遠くにタージマハールが見えたり、それに似た寺院の横を通り過ぎたりするときには、‘そら写真を撮れ’とスピードを緩めた。
落ちていく赤い夕陽を見つめながら、“It’s India”という言葉を考えた。これがいわゆるカルチャーショックというやつだろうか。本当にインドを理解したいと思うなら、この言葉を理解しなければならない。そういう気がした。でも、それは難しい。これがインドなら、行きたいところに行けず引きずり回されても、笑って良い一日だったと思えなければならないのか。それが、インドだから。
あのいかさまガイドは、タージマハールで私に言った。
「日本人はよく働いているのか」
「ああ、毎日、ハードに」
この時、普段からの‘働きすぎなんじゃないか’という思いと‘俺たちは懸命に働いているんだ’という誇りの相反する思いが絡んで、私の語気にはやや力がこもった。奴は少し嫌な顔をして黙った。
ネパールで、旅行代理店の男に同じ質問をされたときがあった。その時彼は日本人の働く様子を聞いて、
「日本人みたいに働かないから私たちはだめだ」
と言った。そう言いながらも、彼はその時約束の時間に一時間も遅れてきたのだが。
極論を言えば、より働く日本人が金をため、ゆったりと過ごしている国に旅行にくる。そして、金をもっているからと、ターゲットになる。これは一体どういうことだろう。働かない者が、働くものから金を巻き上げる。懸命に働いて、少しばかりの休みをとって楽しみにくると、人が良いところにつけ込まれる。一種の生存競争なのだから、つけこまれる奴も悪い。間抜けだ。だが、やはりつけこまれることを何とも思わないで、笑っていることはできない。つけこまれたと思わずに、流れに身を任せっぱなしではいられない。インドを理解しようと思えば、身体も財産も守ることをやめて、“It’s India”と笑っていなければならないのか。そんなことは私にはできない。そこまで極端に考えなくても、客である自分が行きたい所に連れていかれず、彼らが少しでも得したいがために好きなように振り回されたら、こんなもんだとは思えない。怒りがどうしてもこみ上げてくる。自分の金なのだ。土産物屋を一日中回るための金ではない。自分で働いて稼いだのだ。使い道は自分で決める。
元々文化が違う。生まれ育った環境が違うのだ。ただやみくもに“It’s India”とは思えない。この違いを認識することからまず始まるのだ。インドを理解しようとするのなら。お互い理解し合うようになるためには。彼らはインド人で、私は日本人なのだから。