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助けられて一人旅は続く、カンボジア内戦の終わり~その1

 これまでいろんな国を一人で旅してきた。無事でいるために、何でも一人でしなければならない。自分の安全は自分で慎重に守らねばならない食べるもの泊まる部屋も探して歩かねばならない。だが、自分が今までやってきたことはほとんど通じない。常識も、習慣も。そのときその瞬間に雰囲気を感じ取って、手を打たねばならない。どう行動するのが適当なのかは、その国に行ってから敏感に嗅ぎ分けねばならない。疲れ切ってきつくても、その日にどうしても必要なことはやらねばならない不安でも自信があるように見せて、気を張って行動しなければ相手につけ込まれる。それだから一人旅はきついけれども、逆に言えば、その緊張感とスリルがたまらなく面白い。裸の自分の力を試せる充実感がある。

 しかし一方で、一人旅をして、一番痛烈に感じることは何かと言えば、

‘一人だけで出来ることは限られている’

ということだ。どんなに自力で頑張っても、誰も手助けしてくれなかったら、旅など続けられない。誰かが教えてくれるから、誰かが助けてくれるから、宿に泊まり、食事をし、無事に町を歩いて回れるのだ。人に尋ねて、それが本当かどうかを判断するのは自分だ。いい加減な人はいる。嘘をつく人もいる。でも、ちゃんとした答えが返ってくるまで、三人でも四人でも聞けばいい。だが、誰一人として何も教えてくれなければ、立ち往生してしまう。たとえ、シヴァにしても、私は助けられている。土産物を買わないと見るや、車から放り出すことも、地元のギャング団に身ぐるみはがさせることも出来たのだ。とりあえず、アグラに行ってデリーに戻ってこられた。それだけでもシヴァには旅の手伝いをしてもらった。一人旅はある面孤独である。しかし、それだからこそ、現地の人々にいろんなことを聞くし、ゲストハウスや食堂に集まる世界中のバッグパッカー同士は情報交換をする様々な人に出会い助けられて一人旅は続けられていくのだ。

 

内線の終わり

 そして、これは旅行者だけの話しではない。

 今まで訪れた中で、最も素朴で純粋な人々の国。一九九三年二月、第一回目の総選挙を五月に控えたカンボジアでのこと。

 カンボジアに着いたとき、ポチェントン空港には赤い絨毯が敷かれ、シアヌーク殿下とフランスのミッテラン大統領の絵が大きく掲げられていた。丁度、ミッテランがカンボジアを訪れる日だった。

 フランスはかつてカンボジアを植民地にした、ベトナム戦争からのカンボジア内戦の悲劇の一因ともなった、国である。この悲劇はポル・ポト派(=クメール・ルージュ)が実権を握ってから、私たちの想像を絶するものとなった。クメール・ルージュは敵対する人々をことごとく殺し、さらには、知識人たちを殺した。子供を幼いころから洗脳し、小学生ぐらいの子供に武器を持たせ、洗脳しにくい大人を殺させた。自分の親でさえ子供たちは殺してしまった。そして、クメール・ルージュの恐怖政治が危うくなりかけた頃、殺戮はさらにエスカレートし、だれ彼構わず民衆を毎日何百人も殺した。あちこちの村が全滅し、ついに、国民は元の四分の三から三分の二くらいまでになってしまった(それ以下という説もある)。殺された人の数は、二百万人とも三百万人とも言われている。多くの人が親類の中に殺された人がいたに違いない。クメール・ルージュがプノンペンを追われた後も泥沼の内戦は続いたが、ついに争い合った四派の間で和平協定が結ばれ、国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の元総選挙が行われることになったのだった。

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 フランスのことを、カンボジアの人々はどう思っているのか。良い感情はもっていないかもしれない、そう思った。だが、実際は違った。そんなこと言っていられないほど、内戦の悲劇は生易しいものではなかったのだ。