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祈る、とは

 マザー・テレサ。多くの人がその名を知っているだろう。旧ユーゴスラビアからやってきて、修道会‘ミッショナリーズ・オブ・チャリティ(神の愛の宣教者たち)’を創設した。路上で死んでいく人々が人間らしく静かに死を迎えられるように、施設を提供している(1997年没)。さらには、身寄りのない子供を育てたり、ハンセン氏病患者のコミュニティーも作ったりしている。それらの活動は修道女とボランティア・ワーカーと募金によって行われる。一九七九年にはノーベル平和賞を受賞した。とにかくすごい人である。

 大学のときに山折哲雄先生からマザー・テレサに会ってきた話しを聞いた。先生は日本では結構有名な宗教学者なのだが、マザー・テレサと話す時間をとるのは大変だったらしい。頼み込んで三分間だけ時間をもらった。てきぱきと動くその姿は、宗教家というよりは実務家という印象だったそうだ。会うなり、「あなたの時間は三分です。どうぞ質問して下さい」と言ったそうだ。山折先生は、用意していたどうしても聞きたかったことを質問した。そのうちの一つはこれだ。

「貴方がどんなに手を尽くしても、医者がどんなに手を尽くしても、もう助からない、という人を目の前にした時、貴方はどうしますか」

それにマザー・テレサは答えて言った。

「祈ります」

私はその言葉の意味をそれなりに考えてみて、祈るという行為は、宗教を信ずる人の中で、いや、人間として、一番美しい姿なのではないか、と思った。自分の力の限界を感じた時、その人のためにただ祈るのだ。ただ祈るだけのその無力な姿にこそ、人間の究極の美があるのではないか。マザー・テレサの祈るさまを思い浮かべ、心を打たれた。

 しかし、それから、「少年の大きく澄んだ目」に書いたとおり、支援活動の隠れたエゴを思い知らされるという出来事があった。支援には様々な活動があるが、私の行ったことは、相手のために良かれとしてやった寄付が逆に貧富の差を生み出し、または拡大することになり、さらには寄付を受ける人々の働く意欲を失わせるものだった。ところが寄付をした私は“自分は良いことをした”といい気になっていた。自己満足だ。相手には悪影響だった。そこから‘祈り’ということを考えてみると、その美しい姿が歪んできた。自分は無力だと分かってから祈るのだ。その祈りが相手になんの影響も及ぼさないことを分かっていながら、祈るのだ。相手への影響から見れば自己の世界で完結している。悲しかったり辛かったりする自分の気持ちを和らげるためだけに、さらには自分は何か相手のためにしているのだと思い込んで安心するために、祈るのではないか。

 神の存在を信じない人々にとっては、神とは人間が考え出したものだ。私は祖先が見守ってくれていると信じているが、神は信じていない。だから、神は生命の誕生、死について、この世の誕生、いやこの世の存在自体について、何がしかの納得行く解釈ができるように、そしてまた生きて行く上で不安なことや辛いことを乗り越えるための心の支えとして考えだされた、と思う。とすれば、神は自己のためにある。そして、祈りも自己のためにある。

一方、神の存在を信じる人々にとっては‘祈り’の意味が違う、ということもあるだろう。しかし、信じていない私にはよく分からない。実感がない。

 祈るということはどういうことなのだろう。自己満足だろうか。自己満足は言い過ぎで相手を思う気持ちか。生きている人のためこそなのか、または何かの意味があるのか。その疑問はずっと持ち続けたままだった。