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助けられて一人旅は続く、カンボジア内戦の終わり~その2

 プノンペンの独立記念塔に続く大通りの両脇には、ぎっしりと人々が並んでいた。町に住むありったけの子供たちの白いシャツで、ずっと先まで真っ白だ。おのおのシアヌーク殿下やミッテラン大統領の写真、それに両国の国旗を掲げ、嬉しそうに待ちわびている。ベトナム戦争後にこの国を襲った悲劇は、その時、彼らの顔からは感じられなかった。押しかけた人々を整理しているのは、青いベレー帽の部隊国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の人だった。彼らの言うことは、皆、素直に守る。

 「ワーッ」

すごい歓声が起こった。ついに来たのか、いや確かに高級車は見えてきたが、まだまだ先だ。その歓声は、外国人旅行者がバイクで道を通ったからだった。ましてや警備にあたっているUNTACのジープが通った時などは、さらにすごい。カンボジア人にとってUNTACは平和をもたらしたヒーロー達だ。何百万人も死んだ泥沼の内戦を終結させようと助けに来てくれた、ヒーローなのだ。そしてUNTACがヒーローであるなら、外国人は、その平和のヒーローを生み出した恩人であった。

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 そしてついに二人がやって来たとき、熱気は最高潮に達した。写真は高く掲げられ、旗は‘バサバサバサッ’と音を立て、赤と青がはためいた。皇室の結婚のパレードは盛り上がるが、それとは質が違う。いつ殺されるか分からない不安な日々が、ついに終わりを告げようとしているのだ。命に関わる、まさに心からの叫びである。何人も車の後を追いかけた。私も興奮して車を追いかけた。人が走るよりはやや早いスピードだから離されるばかりだが、それでも興奮して車を追いかけた。初めての経験だった。平和を喜ぶ大歓声であり、これから新しい国を造っていこうとする人々の希望に満ちた熱狂が、メインストリート一帯を覆った。

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 そして、そこには、パキスタンからも北朝鮮からも国連平和維持活動(PKO)の兵士が来ていた。彼らは、彼らの国でさえも様々な問題があり、そして、貧しい。それでもカンボジアを助けに来ていた。いろんな政治的配慮もあるだろうが、助けに来ていたことに違いはない。

 このカンボジアの人々の熱狂、そして様々な国から部隊が派遣されてきている状況の中で、日本からPKOに人が出ていて本当に良かった、と思った。出ていなかったら肩身の狭い思いをしただろう。自分もPKOに参加している国の人間なのだ、と思ったとき、誇りを感じたし、とても嬉しかった。

助け合うとき

 内線の最中カンボジアの人々は打ちひしがれ、死に怯えた目を持っていたのだろうか。これはネパールで見た諦めた目より、悲惨だ。豊かでなくていい、希望もなくていい、‘せめて生きたい’という目なのだから。その悲惨さの残像は物乞いに見える。カンボジアには地雷を踏んだ片足のない物乞いがいた。旅をしていて差が分かってきたが、物乞いというのはその国を映し出すものだ。例えば、豊かなマレーシアではぴんぴんしていた。日本では、空き缶を置いて「お恵みを」という時代ではなくなった。ところが、逆に貧しいネパールではひどかった。スワヤンブナートという所に今にも死にそうな物乞いがいた。赤ちゃんを抱えた女の人だ。彼女は階段にはいつくばり、震えながら上体を起こした。手を合わせ、涙を浮かべて、必死に目で‘生きたい’、‘子どもを生かして欲しい’と訴えた。私はポケットからお金を渡した。

 バックパッカーはいろんな人に助けを借りながら、旅を続ける。そして、つまずきながらも自分の足で歩いて行く。様々な問題を抱えた国がある。皆、自分のことは自分でやる。余計な援助はいらない。しかし、助けなきゃならない瀬戸際もある。どこの国だろうが、なに人だろうが。

 その時に、インドだとか日本だとかはなくなるのだ。